おとな研究所は新しくなりました!

【おとな研究所イベント】「日本のこれからの教育」

2020年6月18日、おとな研究所が協賛という形でZoomで意見交換形式のトークイベントが行われた。主催の中田智之さんや参加者の許可のもと、議論の内容を文字に起こした。テーマは「これからの日本の教育」。コロナ禍で全てが変わってしまったこの国で、大きく影響を受けた教育。教員負担や教育の方針、部活動など、課題は山積している。

この日は、世界にルーツを持つ人や様々な経験を持つ5人が、様々なテーマについて議論を交わした。

参加者

中田智之 日本在住。歯科医師、「アゴラ」レギュラー執筆者。イベント主催 (Twitter)
Aki 日本在住。高校2年生。あたらしい党学生部副部長。「おとな研究所」編集長。 (Twitter)
マクロス オーストラリア在住の高校3年生。日本維新の会学生部所属。「おとな研究所」ライター (Twitter)
MAZIPON 日本在住。現役小学校教員。各地での現場経験がある。 (Twitter)
thỉnh thoảng 日本在住。七歳半からベトナムに在住していた。フリーランスで通訳、ベトナム人社会人へ日本語教育も行っている。 (Twitter)

(本文中では、発言者は参加者の頭文字にしています。)

議論の経過

M 学校が何をするところなのか、という部分がコロナで見直されている。学校は決して託児所ではなく教育の場。受験対策であれば塾に任せることも間違っていないが、受験と学校教育が分かれていることがあきらかになった。部活は切り離すべき、とも

中 分化が進まない。

t テニススクールのコーチをしていたことがある。学校の部活は、お金が絡まない利権のような部分がある。軟式と硬式があるが、軟式は学校がやり、硬式は外でやる、というような棲み分けが行われている部分がある。部活とクラブで分かれすぎている。先生たちの負担にも関係しているのでは。

<スポンサー>

M 高校野球の顧問になりたくて教師に、というパターンもある。一方で、やったこともない部活で顧問をしなければならない、ということも。

マ 今後学区を廃止していく中で、地域に根差したスポーツをするべき。学校教育にこだわる必要はない。海外では名門校など以外では学校で部活をするということはほとんどない。
今の日本の学校ではほとんどで同じ内容。シラバス・教育プログラムを制定したうえで、生徒のニーズに合った学校をするべき。
また、市場原理を入れて学校や教師ごとの自主裁量権を上げる。予算や教育内容など。

M 市場原理を入れて成功するかどうかは検証が必要。学区を撤廃したものの失敗したケースもある。 習熟度別についても、小学校では成功するかわからない。
できない子を集めても意味がないのでは。

マ 小学校では意味がないと思う。中高では有効。成績が高い人がさらに伸びれるように。

M 高校の普通科の定義も怪しい。

t ベトナムでは「〇〇科」では分かれない。科目ごとの「統一試験」というものがあり、学校内から先生が優秀な生徒を選別し、地域レベル、全国レベルに上げていく。先生のモチベーションが上がる、社会主義的ではあるが、分化させるための手段としてはアリかも。
部活もしかり。興味がある分野に特化できるようにできるかもしれない。

中 高校から得意な分野を伸ばすために進路を分化することについてはどう思うか

<スポンサー>

A 賛成だが、自分の進路をどのタイミングで決めることができるかわからない場合もあると思う。決められるか決められないかも含めた細分化をするべき。

t 現状選択授業、選択科目というものがあるが、それを応用することができるのでは。オンラインの場で行うことでより広く、専門的な授業を行うことができる可能性もある。

M オンラインで人を集めることが必要。子供の数に比して部活の多様性が広がり、地域格差が広がる恐れも。インナーカレッジのようなものが必要。

t 地域の少年団をやるのにも資格が必要。講習を受けた人がやっている。ここと部活が混ざらないのが問題点なのでは。資格制度があるのに、これを活かさないのは勿体ない。

A 協会が制度と教育を結び付けないのが問題なのでは。

t 調整をするべきだが、教師が守りに入っているような部分がある。

中 日本の学校教育におけるビジョンについてはどう考えるか。

<スポンサー>

マ これからはスペシャライゼーションが必要なのに、「普通」に拘るのは無意味。学校教育が必要な職業は少ない。直接労働力向けの専門教育と優秀な人への教育の分化も含めて、人材の効率的配分が必要。

M 中田さんも賛成では

中 大体同じ

[adchord]

M 学校教育が必要な職が少ないという話が合った。そもそも「学力」とはなんだろうか。

A 難しい…笑 自分の目の前に問題があったとき、事物があったときに噛み砕き、乗り越える能力。

マクロス 問題に直面した時に解決する力。

M 先ほどベトナムの学校について言っていた「教師が優秀な生徒を選別する基準」とはなにか。

<スポンサー>

t ひたすら試験の点数。補足をすると、中学の試験でも内容は高校・大学。天才を発掘するテスト。

M 中田さんは。

中 学力のランキング付けが必要。

M 大学受験をゴールとした各種受験は必要。ただ、そうではない学校教育も必要。英語の民間試験導入に失敗したのも関係する。小学校ではランク付けの必要はないが、「生きる力」「豊かな人間性」というものがある。
学習指導要領で細分化されていた教科がまとまってきているのもその一つ。「どの教科もゴールは同じ」ということ。以下の三つ。

  • 知識・技能
  • 思考力・判断力・表現力
  • 学びに向かう力

中 やりたいとことと学力のメジャーが乖離している部分がある。

t それら3つの力は受験で問いたいはずだが、「人間性」「学びに向かう力」が計れない。

A 「学びに向かう力」は年齢的に小学生の段階で身に付くもので、教育がオンライン化すると計ることが困難になるのでは。

<スポンサー>

M 学ぶことを楽しむことができるかどうか、という部分で、受験で測るのはやはり難しい。

中 そういった計りにくい部分について、研究発表などを導入することも必要だと思うが、海外ではそのあたりはどうか。

マ 論理的思考力が重要。社会における主体性が出来上がる礎でもある。

M Googleやマイクロソフトは日本の教育に馴染まない部分がある。点数付けをされるものの、その過程を見ることがおおい日本には馴染まない。

マ 点数を重視することは豪州も同じ。

中 点数についてあいまいにすることはよくない。基準を明確にするべき。

マ 点数が一番フェア。

<スポンサー>

M そもそも測る必要があるかも重要では。

A 絶対評価か相対評価かによっても変わる部分ではある。

t ベトナムでも点数。シラバスで論理的思考が重要とされるのであれば点数は重要だが、日本では学校生活すべてが評価基準になっている。
いずれにしても、しっかりと分けることは必要。

M 「日本の天気は西から東に変わる」事がわかればいいが、生徒個人個人が全く異なる興味で様々なことを調べる。それらへの評価はとても難しい。また、評価をする意味も考える必要がある。

マ それらもオーストラリアでは点数化されている。内容というよりも、エビデンスと論理性。

中 どれが実態を反映しているのか、ということも重要。

[adchord]

t 小学校の評価の中で、間違ったことをしていても努力の形跡が認められる場合にはどうか。

<スポンサー>

M 教師の側からは指摘しない。集団教育の中での自主的な気づきという部分がある。子供の言っていることが全く間違っていないこともある。

t そういった部分にも揺らぎがある。

中 オーストラリアではどうか。

マ オーストラリアでは間違っていることを肯定することはしない。間違っていることを認めようとすることが、この国に意味のない産業を生む原因にもなっているのではないか。

A どういった部分を重視するかにもよる。根本的な文化、民族性にもかかわる部分。

中 文化、民族性に拘って国際社会の中で負けてしまっていいのだろうか。

マ 生産性が重要なのは当然。それこそが多様性を認めることにもつながる。むしろ倫理観について学校が教育すること自体がおかしい。倫理を教えるのは西洋では教会・コミュニティの仕事。

<スポンサー>

M マクロスさんの教育観は産業革命以降に沿っている気はする。

中 学校でマナー教育、社会性についての教育を行っている部分はある。

t 善悪やマナー、社会性については、日本でもかつてはコミュニティ・神社・寺の仕事だったはず。コミュニティは変容したのに、学校の側はいつまでも変わらないので、教師や生徒の負担は大きくなる一方。

A 地域に将来世代を育てるリソースはない。地域のコミュニティ自体を日本は捨ててしまっているのでは。

t 捨ててしまっているというよりは、孤立化しているのでは。スポーツや老人のコミュニティは今も生きている。パワーとしては大きいし、教育と結びつける余地は十分にある。

A 確かにその通り。ただ、少子高齢化という問題も日本は抱えている。行政コストは大きい。

t 教育バウチャーの考え方を入れたらいいと思う。学校教育と一体化できるのでは。

<スポンサー>

M 子供の教育の場を分散させる、ということだと思う。担い手が教員だけでは難しい。

t コミュニティに可能性が残されていることに肯定的。ベトナムにはドロップアウトした子を救う仕組みがない。技能実習生の問題もここに関係してくる。

M 今の日本の学校教育には「ドロップアウトする子を作らない」ということだった。どんな子も救おう、という気持ち。できない子へのフォローに成果はある。だが一方で、できる子が伸びることが難しくなっている部分もある。

マ ドロップアウトする子がいても、秀才が伸びて経済効果を上げ、社会の中で再分配をしていくことのほうが合理性があるのでは。

中 ドロップアウトしてしまった子へのオーストラリアでの対応は。

マ オーストラリアでは再チャレンジが許容されている。ドロップアウトによって悪くなる社会構造ではない。

M 多様性を認めていくなかで、どちらがいいのか。

<スポンサー>

A ドロップアウトしないようにすることと、できる子を伸ばすことは矛盾しないと思う。

[完]

参加者のブログ記事

中田さん https://nakadashika.blogspot.com/2020/06/blog-post_23.html

MAZIPONさん https://note.com/mazipon/n/nced5fe8fe9aa

Aki https://aki-recollection.blogspot.com/2020/06/5.html

コメントを残す