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【比較】日本とオーストラリア、教育はここが違う!

日本と豪州は同じ自由や民主主義などの基本的価値観を共有する国である。しかしながら、日本と豪州の間には文化的な違いがあり、それが各国の教育制度に反映されている。総論から言うと、日本の集団主義、豪州の個人主義的は教育に対する責任の所在と機会に関する思想 左右し、それが直接政策に関わってくる。

教育は価値観

この個人と集団の価値観の違い、これは各国の教育性の目標の違いにある。 日本は生徒全員に同じ高水準な教育を与える事に注力してるのに対し、豪州では個人の自由選択を本に、個人が学びたい教育を重視している。結果として、日本では「出来ない子」は比較的少ないが、結果的に「特別能力の高い人」の数も限られてくる。豪州はその逆で、学ぶ意欲が無いが故、「出来ない子」も大量に存在するが、結果的に特定の分野におけるリーダーを輩出する能力も高い。

この教育施政の違いは制度上の違いにも表れれる。日本では基本的に(高校3年以外)全学生共通の教科が与えられるが、豪州の高校は選択科目(単位)制となっており、ここでも共通学力の確保と個人能力の活用という姿勢の違いがあらわれている。結果として成績の格差、そして将来の給与格差につながっており、国の教育制度その国の経済構造に多大なる影響を与える事が分かる。 これも、日本の集団、結果平等主義的な側面と個人主義、自己責任論が強い豪州との違いでもある。

教育と主体性

日本の教育制度の弊害として主体性を育まない問題があると言われている。一体感のある教育を重視しすぎるが故に、個人の意見や論理性、考え方全般を重視しない形となっている。反対に教師から教わった内容を完全に暗記し、試験でこれを書くことが大事と考えられている。これは試験内容がマークシート方式や単純な筆記回答が中心的である事が証明しており、エッセー(小論文)を主体とする豪州とは全く異なる。 結果として自ら考える能力は育まれず、日本の社会においてマニュアル至上主義が作り上げられる根本的な理由なのかもしれない。

能力主義が平等か

結論として、日本の教育制度は一定の基準を満たした生徒を大量量産する高度な教育制度だが、豪州は生徒本来の能力を発揮させ、能力の無い子は置いて行かれる弱肉強食のシステムとなっているのだ。これは各種文化的違いが教育制度を反映した結果であり、日本の集団主義と豪州の個人主義が良く表れていると言える。

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