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【野党共闘の時代】政権交代は再びあるのか#2~共産票の力~

本日は2015年の野党史、そしてなぜ共産党が野党共闘のカギを握っているのかについて掲載します。-

(前回の記事はこちらからご覧ください!!)

維新の分裂と安保法の制定(15年~)

都構想の敗北と維新の分裂、そして再出発へ

15年では統一地方選挙を終え、一つの大きな政治イベントがありました。5月17日、大阪では「都構想」の住民投票が行われた。投票日前は賛成多数で可決されるのではという予想も見られたものの、ふたを開けてみれば1万票の頻差で否決。橋下氏は、市長任期終了後の政界引退(休憩)を表明しました。

その後、橋下氏&維新・江田憲司代表の後任を託されてたのは松野頼久衆院議員が代表に就任。これが維新の党の悲劇が始まりです。

事態が急変したのは8月に行われた山形市長選。維新国会議員団幹事長の柿沢氏が「共産党」や民主党を支援する候補を党の了承なく応援。このことに反発し松井一郎大阪府知事と橋下市長が離党を表明、維新分裂が決定的になってしまいました。

その後、執行部側が大阪維新系を一斉除名、逆に大阪維新側が「維新の党解党決議」を採択、片山虎之助参院会長が執行部側の議員を会派離脱させる、そして訴訟合戦にまで発展してしまい事態は泥沼化していったのです。

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分党協議も決裂し、橋下氏に近い議員らが新党「おおさか維新の会」(現日本維新の会)を結党。(のちに、維新の党側が「維新の名称使用」などを取りやめる等の合意がなされ双方が合意。)

同年11月に行われたおおさか維新結党後の初の大型選挙である大阪w選挙では知事選には松井一郎氏、市長選には衆院議員の吉村洋文氏を擁立。相手候補が自民党、そしてなんと共産党まで他の国政政党が推薦する中、維新が大差で勝利。

後任の吉村氏が市長に就任すると同時に橋下氏が政界引退(休憩)。維新代表には松井氏が就任し、ここから維新が第三極として独自路線を歩み始めたのです。

安保法が「野党共闘」のきっかけに

15年夏ごろには「安全保障関連法」審議で与野党が激突。そして連日国会前では野党各党が市民団体と共同でデモ活動を行うなど連携を強めていったのは皆さんの記憶に新しいのではないのでしょうか。

法案成立後、共産党が安保法制を廃止を旗印に野党各党に共闘を呼びかけ、翌年には一部野党(民進、社民、生活)が応じ共闘体制が成立しました。

共産党票を蔑ろにできないワケ

共産党は結党以来、独自路線を歩んできており主義思想から見ても他の政党とは相いれないはずですが、選挙観点から見れば2005年の衆院選にさかのぼる必要があるのです。

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2005年といえば小泉政権時代の郵政選挙。共産党は準備不足ということもありこれまでの全選挙区擁立方針から転換し30選挙区で候補者擁立を見送りました。(いわゆる共産空白区の発生)

それらの選挙区のほとんどが自民党と民主党の一騎打ちに。この時は、共産空白区ほとんどで自民党が勝利したものの、マスコミの出口調査では9割近くの共産党支持層が民主党候補へ投票したと判明し、共産党の候補者取り下げは民主党候補の票を底上げする効果があると分かったのです。

4年後の2009年衆院選では全選挙区擁立は党の財政を考慮して見送ることを表明。全国で150近くの共産空白区が生まれました。

(表向きでは党財政を理由としていますが、一部の記事によると小沢一郎氏が共産党に候補者を一方的に下してもらう事を打診していたのだとか。)

自民党に逆風が吹いていた事もありますが、共産党が候補者を下したことも間接的に民主党大勝へと貢献していました。

その後、13年参院選、14年衆院選と勢いをつけていく共産党の票が当時野党第一党の民主党の候補が自民党に競り勝つ上で極めて重要になってきます。

衆院選では完全な野党共闘をとったことはまだ一度もありません。しかし、昨年参院選における東北地方の一人区勝利など、参院選では2回連続で共闘体制により成果を上げているのも事実です。(これについては後日特集します)

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すでに野党共闘の枠組みにはまってしまった一部野党たち。共産無しでは自分たちの議席を守ることができない。生き残るために悪魔に魂を売る、と言っては言いすぎであるとは思いますが、主義理念を無視した連携の理由はここにあるのです。

最後に

前回予告より多少内容を変更させていただきいましたが、今回はこれで区切らせていただきます。第三回目となる次回は小池知事から学ぶ野党が伸びる2つの策について書いていきます。本日もご覧いただきありがとうございました!