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民主主義への公開書簡─今疑うのは本当に正しいと言えるのか

※この記事は、ゲストライターによる寄稿記事です。寄稿の応募はコチラから誰でも可能です。

※この記事は、『「自由と民主主義」という宗教 -あなたにこの2つを疑うことはできるか』の記事内容への反論を含みます。まだ読んでいない方は、コチラを読んでから本文を読むことを推奨します。

 先日公開された『「0自由と民主主義」という宗教 -あなたにこの2つを疑うことはできるか』という記事に私は大いに悩まされた。一読すると、確かに民主主義を疑うという行為がいかに政治の本質を突きそうなものであるかと納得してしまう。

 しかしこの記事を読んで、私はなんとも説明し難い違和感が残った。その違和感の正体を追うためにも、今回「果たして現時点で民主主義そのものを疑うべきなのか」という観点から論じていく。

『「自由と民主主義」という宗教』への反論

 本題に入る前に、公開されている記事に対して指摘したい。記事の内容は終始、戦後日本における民主主義を題材に語っているが、結論が民主主義というそのものを疑っている点だ。確かに日本に於ける民主主義の不具合は、法哲学や法学でも指摘されているが、それが直ちに民主主義そのものに対する批判に繋がるわけではない。

 あくまでも論じるのであれば「戦後日本に於ける民主主義の実行を疑う」べきであり、「民主主義と自由」を疑うことへのハードルは高い。

 また近代の民主主義は能動的に決められていたから成熟しているが、現代の民主主義はメディアによって左右されていると言う点についても、疑義を呈したい。記事では『マスメディアといえば新聞くらいしかなかった頃であるから市民一人ひとりが能動的に演説会などを聞き、選挙権を行使していたことであろう』としているが、本当にそうだろうか。

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編集部注

 まだ市民の教育水準が決して高くない時代に、演説会に足を運ぶほど政治に興味があり、教養のある市民がいただろうか。そうでなくても、そもそも都市部と地方の交通などが整っていない時代に候補者の考えを聞くために移動できただろうか。新聞しかメディアがないということは、現代のように多くの情報発信手段があり、情報の取捨選択が出来るわけではなく、ごく少数のマスメディアによる意見を鵜呑みにするだろう。

 実際指摘しているような時代では、米国の1メディアが米西戦争を起こす引き金になったこともあるし、今よりも世論操作が可能だったと言わざるを得ない。

 さらに言うのであれば、完全普通選挙が導入されたのは、それこそ筆者が民主主義が後退していると考えている「戦後日本」である。そしてそのような民主主義のあり方を望んだのは、紛れもなく自由と民主主義を切望する日本国民であり、その点で日本人は血は流さなかったとしても自らの意思で民主主義を勝ち取っている。

 そして投票率の低下を民主主義を疑う根拠にしているが、政治が安定していて差し迫った問題がない限り投票率が低下し現状維持を容認するのは当然に考えうることである。

 そしてその現状を作ったのは紛れもなく民主主義で選ばれた内閣であり、投票率の低さは民主主義を否定することにならない。何故なら民主主義に求められるのは、どのような状況であっても民意を反映する手段を保障することであるからだ。

 しかしながら、民主主義に対する疑いを呈することはこれまで多くの学者が挑んできた命題であり、それを論じたという点で、記事を大いにリスペクトし、本論に入る。

そもそも「民主主義」は疑うに足りるのか

 民主主義そのものを疑うべきかという論点は「現時点で民主主義を疑うに足るほど、これは完成・成熟しているのか」という点に還元される。これを基に論を展開していきたい。

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 先に結論を述べるなら、少なくともこの現代に於いて、世界のどこにも民主主義を完成させている国はないだろう。しかしながら現在新たな民主主義を模索する動きもある。民主主義が何故完成させられないのか、それを紐解きつつ紹介していきたい。

 そもそも民主主義には2種類ある。直接制と代表制だ。

 かつて古代ギリシアでは「アゴラ」と呼ばれる場所に市民が集まり、都市国家の方針について直接議論を交わした。一見より良く見えるこのシステムの弊害をフランスの哲学者モンテスキューは民主政治を「人民全員が最高権力を持つ体制」としつつも、全人民の政治参加が可能な「小さな領土」においてしか可能ではない、としていた。

アゴラ - Wikipedia
編集部注:WikipediaCommons

 そこで新たに生まれたのが代表制というシステムだ。代表制は近代での民主革命に併せて成長していったシステムで、今の議会制民主主義の元の一つになっている(しかし、議会制と代表制の出自は異なっている。理由は後述)。

 つまり直接制は意思決定の「質」が高く、代表制は意思決定に関わる人々のの「量」に長けている。この二つのバランスを取って運営しなければならないため、民主主義はどちらも完璧なものになり辛いのだ。

 しかし近年、ネット社会の発展がこれを変えつつある。

 液体民主主義と呼ばれるシステムが欧州の一部政党で導入されている。これはネットを使い、直接自分が投票できるし、しかも自分の1票を信頼する者に委任でき、その委任した者が期待したような判断をしなければ、その委任を撤回、あるいは一部を保留することも可能という、票が液体のように流動的になっているシステムだ。勿論まだ実現には時間がかかるが、新たな民主主義を生み出す一つの可能性だ。

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 以上のことから、まだ民主主義は完成しておらず、そして新たな民主主義システムが生まれる可能性が現実に存在している。民主主義に懐疑的になることも理解は出来るが、願わくば、新たな民主主義に期待し、それらの展開を見守りたい。

補足:議会制と代表制の違いについて

 歴史的経緯も違うが、大きな違いは意思決定に際してのプロセスだ。代表制というのは市民の代表者らが、彼らの意見を反映し投票などを行うが、議会制は彼らを意見を元にするものの、議論などを通じて最終的に意思決定が行われる。つまり民意と異なる結果が「議論での妥協」により生じるのだ。

 これについてイギリスの政治哲学者、ジェームズ・ハリントンは、「議会はいっさい議論をしないで議員は自分の確固たる意志のもとに投票せよ」と説いている。

 またこう言った妥協で行われる意思決定が、民意が反映されていないと市民が感じる原因になる。

ライター:白石顕治 Twitter:@shiroishi_offi 自己紹介:中国やアジアへの趣味が高じて北京の大学に進学した中華オタク

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