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教養としての民主主義論 —日本は「民主主義」国なのか?—ゲストライター記事

※この記事は、ゲストライターによる寄稿記事です。寄稿の応募はコチラから誰でも可能です。

※この記事は、『「自由と民主主義」という宗教 -あなたにこの2つを疑うことはできるか』の記事内容への反論を含みます。まだ読んでいない方は、コチラを読んでから本文を読むことを推奨します。

「民主主義」の定義

 「民主主義」という言葉ほど非常によく使われる一方で、曖昧な概念はない。民主主義を単に多数決に基づき国政上の政策・方針を決定する思想として限定的に捉える人もいれば、単純な多数決以上の原理を求める人もいる。使い手によって非常に多義的だ。本稿では、そのような曖昧で複雑な「民主主義」の概念を整理していきたい。

 「民主主義」を考えるのに当たって、必ずしもそれに対して親和的になる必要はない。批判的ながらも、非常に素晴らしい考察を行う思想家もいる。しかし、だからといって雑に捉えてしまうのは如何なものだろうか。例えば、本サイトで先日掲載された民主主義批判の記事(「自由と民主主義」という宗教 -あなたにこの2つを疑うことはできるか)においては、民主主義を「主権が国民にあり人権を何よりも優先する思想」と定義していた。

 はっきり言おう、これは民主主義の定義ではない。これはリベラル・デモクラシー(自由民主主義/立憲民主主義)の定義(とはいえ定義の仕方の厳密な正しさについては保留するが)である。ちなみに、ここで補足するとリベラル・デモクラシーこそが近代的民主主義であり、日本やその他欧米など一般に民主主義国と形容される国々で採用されている思想なのだ。

 では民主主義はどのように定義されうるのか。ナチスの桂冠法学者として名を馳せ、法学・法哲学・政治哲学に多大なる影響を残したカール・シュミットの定義によれば、それは「一連の同一性」すなわち法律と国民意思との同一性である(なおこの同一性は「一連」のなかでの再重要な要素の一つに過ぎない、治者と被治者の同一性など多くの同一性を含む)。噛み砕けば、多数決による決定とその決定を国民が受け入れる、という意味である。だからこそシュミットは次のようにも指摘するのである

民主主義は、軍国主義的でも平和主義的でもありうるし、進歩的でも反動的でも、絶対主義的でも自由主義的でも、集権的でも分権的でもありうる

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 以上は、「民主主義」=平和・進歩・自由と結びついて考えられている現代日本の常識とはほど遠いリアルな指摘だ。

カール・シュミット「政治的なるものの概念」 近代の逆説直視「敵か友か」|好書好日
編集部注:カール・シュミット(参照元)

「立憲主義」と「民主主義」

 話を戻そう。先ほど、日本で採用されている思想はリベラル・デモクラシーだといった。これを立憲民主主義と訳したとする。この言葉は立憲主義という要素と民主主義という要素に分解できるが、民主主義を上記のようにとらえたときに、もう片方の立憲主義はどのようにとらえればいいのか。

 それは、「民主主義によって決定不可能な領域をつくる」というものだ。例えばA国に圧倒的多数のx人と少数のy人がいたとする。x人とy人の間で対立が起こり、国民全体の多数決によってy人を問答無用で国外追放するという法律ができたとしたらどうだろう。民主主義的にはこれは正しい。しかし立憲主義はこの状態を正しくないと考え、是正しようとする。y人にも人権があり、それを国家が踏みにじることは決して許されない。

 人権の尊重・適正な手続き・権力分立・非民主的機関としての裁判所の役割尊重等々など現実の日本にもある諸制度の思想的根底はここにある。何より憲法という国家権力を縛る国内最上位の法によって、民主主義の弊害を食い止めようとしている。

 しかし立憲主義によっても弊害が出てしまう可能性もある。過度な権力分立によって、裁判所が民主的統制を全く受け付けない機関となり、民主的な決定に基づく正当な政策が軒並み憲法違反とされてしまったとしたら、それは問題になるだろう。このような場合は民主主義的な原理に基づき是正する必要がある(日本ではいちおう最高裁判所の判事に対する国民審査がある)。

 このように立憲主義と民主主義は相互に対立しけん制し合う原理であり、それにもかかわらず結びついて、われわれの通常考える「民主主義」が成立しているのである。もっともこれは、絶妙なバランスの上に成り立っているのであり、絶えまない監視と手入れが必要なのだが。

 では、以上のような意味でのリベラル・デモクラシー(繰り返しになるがこれが「近代民主主義」であり民主主義国と一般に呼称される国家が採用している思想である)は絶対的真理・疑いえぬもの(まさに「宗教」)としてこの世に君臨しているのだろうか。それは否である。西欧各国に吹き荒れる左右のポピュリズム運動、ポスト社会主義体制のもと一旦は安定した自由民主主義が導入されたかに見えた東欧諸国で跋扈する権威民主主義政権、様々な政治勢力がリベラル・デモクラシーに挑戦し、一部では完全に勝利している。

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 もちろん、それらを一括して批判するつもりはない。私は決してリベラル・デモクラシーが普遍的に優れた思想であるとは思わないし、特に現代では明らかに機能不全を起こしていると思う。とはいえ、これらに立ち入ると話がずれるので脇に置く。

 日本では「民主主義」という言葉が多義的に使われており、「民主主義」が何であるのかを見失っている。日本は「民主主義」国ではなく「自由民主主義」国なのだが、それが認識されることはあまりなく、立憲主義(自由主義)に対する認知があまりにも低い。この記事を読んでくれた人はぜひこの機会に民主主義/自由民主主義に対して考えてみる機会を作って欲しい。

ライター:ブント Twitter:@bund1958 自己紹介:リバタリアン

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