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今世紀最大の発見。秀吉最後の遺構が出土

今世紀最大の発見。秀吉最後の遺構が出土

新型コロナウイルスを中心に、ここ一週間も様々なニュースが飛び交ったが、今日は僕自身の得意分野にかかるニュースを取り上げたいと思う。

「京都新城」遺構初めて見つかる

(写真:京都仙洞御所内で発見された石垣など「京都新城」の遺構)=毎日新聞より https://mainichi.jp/articles/20200512/k00/00m/040/192000c

 京都府京都市上京区にある京都御苑で、ある遺構が発見された。俗に「京都新城」と呼ばれる城跡である。

 京都新城、と言ってもピンとこない人は多いかもしれない。安土桃山時代を生きた無類の天下人・豊臣秀吉公が最晩年に築城した御城である。今日はこの城について、解説していく。

当時の背景

豊臣秀吉。尾張の農民から関白・太閤まで上り詰めた戦国時代の下克上の典型だが、それゆえの悩みも多かった。当時の大名家は互いに姻戚関係を結んだり養子を取ったりと、一族郎党の勢力拡大にいそしんでいたが、豊臣家(羽柴家)は家柄こそ良いものの新興であり、後継ぎがいなかったのである。

当初秀吉が後継ぎとして指名したのは、姉・日秀尼の息子・秀次である。当時秀吉には側室・淀殿との間に鶴松という子供がいたが、夭逝してしまった。秀次は秀吉に関白の名を譲られたばかりか、京都にあった彼の居城をも譲られる。「聚楽第」だ。

 聚楽第は城というよりも、朝廷と大坂を結ぶ豊臣家の出張所のような意味合いが強かった。多くの行事が催され、千利休をはじめとした文化人たちもこの周辺に居を構えたという。秀次が太閤の跡目を継ぐことは、だれの目にも明らかだったのだろう。

築城と解体

豊臣秀次

だが状況は大きく変わる。多くの人がご存知のように、こののちに淀殿は再び秀吉との子を産む。豊臣秀頼公だ。彼の誕生は秀次に暗い影を落とす。

 秀頼誕生の2年後、秀次は謀反の疑いをかけられて全ての高野山に追放され、自害させられる。妻子や一族はもちろん、家臣やその妻子まで残らず皆殺しにされたことは有名だ。

 この際、多くの人々ともに破却されたのが、聚楽第だ。秀次の存在そのものを否定したかったのだろう。秀吉は自らの居城でもあったはずの聚楽第を解体する。これにより京都における豊臣家の拠点はいったん消滅した。この代わりとして建造されたのがいわゆる「京都新城」なのである。

聚楽第が秀次に下賜されたと同様、京都新城は秀頼に下賜された。元服の際はこの城から参内し、官位を得たという。その後も秀頼はこの城を居城とする…はずだった。

秀吉は秀頼元服を見届けた翌年、伏見城で亡くなる。この際の遺言により、秀頼は後継者として大坂城に移った。代わりに新城の主となったのは、秀吉の正妻・高台院である。

秀吉亡き後の豊臣政権下で実権を握った徳川家康は、関ケ原の戦いの際に新城を「御所に近く、戦闘に利用されると危険」という理由で解体し、屋敷部分を除いて解体。高台院の死後しばらくも残るが、のちに後水尾天皇退位の際に、上皇の住いである「仙洞御所」の地として選ばれたことにより完全に解体された。

以上のような経緯から、文献上にのみ確認される「京都新城」の位置は京都御所擁する京都御苑南東地域である仙洞御所付近であると考えられていたが、その以降は長らく発見されなかった。今回の調査では堀と石垣の跡が見つかった。堀の跡からは、豊臣家の家紋「五七桐」の金箔(きんぱく)瓦も出土したという。これまでの研究では「城」というより邸宅としてのものとされてきていたが、御所の隣近所にもかかわらず大規模な堀や石垣が発見されたことから「城」としての性格が確認されたということでもある。

 今後も調査研究を見守っていきたい。

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