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昨今の暴力による急速な社会変革を憂う

本稿は、特定の宗教やその信者を非難したりすることや、教義を広めたりすることを目的として作成されたものではありません。

令和4(2022)年7月8日、参議院選挙の最中に安倍晋三元内閣総理大臣が凶弾に倒れた。これは、絶対に許されることのない蛮行であり、特に民主主義の根幹である選挙の最中にこのような犯行が行われたことに断固として抗議する。

報道によると、容疑者は犯行の動機を次のように供述している。

母親が宗教団体にのめり込み、多額の寄付をするなどして家庭生活がめちゃくちゃになった。安倍元総理が宗教団体と近しい関係にあると思った

https://www3.nhk.or.jp/lnews/nara/20220715/2050011048.html

その事件を境に、その宗教団体の問題点がメディアやSNS等で大きく取り上げられるようになり、世間が政治と宗教とのかかわりを問題視し始めた。そして、その世論に迎合するかのように、政治家が政治と宗教のあり方を変えようとしていることに、筆者は強い疑問を抱いている。

本稿では、その懸念の理由について記述していきたい。

暴力を受けて急速な社会変革を行うことは暴力の肯定である

冒頭にも記述したように、安倍元総理が暗殺された事件を受けて、ある特定宗教が注目を集めるようになった。テレビのワイドショーや新聞、TwitterをはじめとするSNSを眺めていると、その話題ばかりが目立つ。

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そこでは、その特定宗教の教義や過去から現在までのトラブルなどを列挙して、コメンテーターが、いわゆるカルト宗教の定義やその規制について語ったり、選挙や政策面における宗教と政治とのつながりを批判したりしている。

個別の話題ついては、おとな研究所の別記事で考えを述べるつもりだが、筆者はこのような社会の流れや世論の動向そのものに強い疑問を感じている。その疑問とは、暴力を受けて急速な社会変革が行われることは果たして適切であるかということだ。

確かに、話題に上がっている特定宗教が抱えているトラブルは少なくないし、筆者の宗教的価値観からすると考えが異なる点もある。

しかし、この成熟した民主主義の制度の下において、暴力の影響を受けて社会変革を急速に行うということは暴力の肯定と変わりなく、極めて不適切なのではないだろうか。

暴力の肯定は民主主義に対する脅威だ

筆者は、過去に少なからず選挙に携わってきた。

そこでは、言論や正当な手続きをもって社会を変えたいと思って活動してきたし、そういった思いを持っている人に対して、少しでも力になればとボランティアをしてきたつもりだ。

選挙以外でも、何か社会に疑問を持ったような時には常に言葉で発信してきた。

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そういった経験がある者として、暴力によって社会にこれだけ大きな波がもたらされ、急速に社会が変えられるというのは、大変悔しく遺憾であるし、戦後、日本人の弛まぬ努力によって発展してきた民主主義が壊されかねない非常に恐ろしい状況だと考えている。

また、そのようにして暴力を肯定し、テロリストに成功体験を与えるというとは、暴力行為の扇動になりかねず、さらなる民主主義の脅威となりうる。

そういった意味で、暴力を受けて急速な社会変革を行われようとしていることに強い疑問を抱いている。

犯人が言葉によって変革を起こすことを諦め、暴力という非正当な手段で何かを訴えてきている時点で、その人の境遇や事件の背景に思いを馳せて物事を変える必要など、全くと言っていいほどないのである。

政治家は暴力に屈する必要はない

選挙中に安倍元首相が暗殺されて以降、多くの政治家は「暴力には屈しない」とのメッセージを発信していた。

ところがその後、暴力をもって浮かび上がった政治と特定宗教の関わりを、世論に迎合して断とうとしたり、いわゆるカルトと呼ばれるような宗教の規制を検討したりする政治家が数多く出てきた。

政治家は、普段から言論や正当な手続きをもって物事を変えようと考えているはずだ。

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実際に、そう考えて行動している政治家を多く見てきた。

そういった政治家こそ、改めて「暴力には屈しない」と宣言し、現在の世論に流されたり、暴力の影響を受けて急速な社会変革を起したりすることのないようにしてほしいものである。