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ネオコンのレジェンド:ドナルド・ラムズフェルド氏、波乱の人生を追う。

本日(米国時間30日)、第13/21代、米国国防長官だったドナルド・ラムズフェルド氏が死去したと発表された。享年88歳であった。

ラムズフェルド氏はイラク戦争(2003-2011)で米国を筆頭とする多国籍連合内でディック・チェイニー副大統領と共に、主導的立場にあった。その為、彼の功罪については今でも米英を始めとする諸国では紛糾の元となっている。しかしながら、彼の功績を批判する人であっても、彼が20世紀後半から21世紀初頭にかけて、世界の安全保障に多大なる影響を与えた人と言う事は否定しないだろう。ネオコン(新保守運動)外交政策の先駆者であり、一番の体現者である彼の人生を本記事では追っていきたい。

生い立ち

ラムズフェルド氏は1932年、7月9日に米イリノイ州、シカゴにて、ドイツ系移民の家族に生まれ、同州ウィニケタ村で幼少期を過ごした。父は第二次政界大戦中、航空母艦にて従事し、対日戦闘を経験した。その後、名門プリンストン大学の政治学部を1954年に卒業し、米海軍に入隊した。海軍では飛行士となったが、1957年には議員秘書となった為、対潜部隊の予備役となる。

海軍時代のラムズフェルド(右上)

議員時代

その後、1962年にラムズフェルド氏は米下院(衆議院)のイリノイ13区から出馬し、当選し、その後は共和党の穏健派として圧倒的な地盤を築き、4期連続当選。代議士任期中は外交安保分野に集中し、中でも第一回下田会議の共同設立者となり、親日家でもあった事も有名だ。議員時代は後に大統領となるジェラルド・フォード氏の側近として活躍し、彼の共和党衆院代表当選に貢献した。

※下田会議とは日米の議員を始めとする有識者間のハイレベルな非公式政策対談。日本側からは中曾根康弘元総理などが参加し、日米関係の深化に貢献した。

https://ja.wikiqube.net/wiki/Shimoda_Conference

議員時代は、優秀との評判で政権追及の為に調査を徹底する事が有名だった。逸話として、民主党ジョンソン政権によるベトナム戦争の発表が、事実より米国側の優位性を誇張しているとの疑問を彼は抱き、議員でありながら、直接南ベトナムまで視察に行き、直接現状を現場から聞き出した経緯がある。そこで、ラムズフェルド氏は南ベトナムが米国に頼り過ぎており、独自に戦争を遂行する事は非常に困難になっているとの分析し、戦争方針の変更に関する議論を議会に直接持ち込んだ。

若手のスター議員であったラムズフェルド

政権中枢へ

ニクソンとラムズフェルド(真ん中はラムズフェルド氏の息子)

その後、共和党ニクソン政権誕生の際には、議員を辞職し、ホワイトハウス内の政治任用官として経済機会局長官(OEO)として大臣級の職員となった。この時に、後にブッシュ政権で後に副大統領となった盟友ディック・チェイニー氏の上司となる。OEO長官時代には社会保障制度の改革を強力に進め、政策効果が低い政策を中止し、政策効果が高い政策へ予算の組み換えを実行した。同時に、ニクソン政権の目標であった社会保障のBI(若しくは負の所得税)への一元化計画の土台を作り上げだ。ニクソンの補償所得(事実上のBI)法案は議会に提出されたが、否決されてしまい、実現する事は無かったが、先進的な政策であった事は間違いないだろう。その後の内閣改造でラムズフェルド氏は政策一般に関して進言を行う、(閣僚級の)大統領参与に就任した。

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ラムズフェルド、フォードとチェイニー氏

ニクソン政権はその後、ウォーターゲード事件で崩壊する事となるが、幸いにもその一年前、ラムズフェルド氏は北大西洋条約機構(NATO)の米国代表としてブリュッセル駐在となっていたため、政治的ダメージを受けずに済んだ。ニクソン大統領の辞任後発足したフォード政権では、首席補佐官(日本での官房長官)に就任し、実務面で大統領を支える事となったが、たった一年後、内閣改造で横滑りとなり、国防長官に就任する事となった。

国防長官に就任したラムズフェルド氏は、これまで継続的に徴兵を利用した米軍の大規模な兵力維持から、完全専門集団化への改革を断行した。更に、60年代以降から、対ソ米軍相対的優位性が損なわれてると主張、米軍の新型兵器投資を推し進め、艦隊の近代化、B-1戦略爆撃機の開発と巡航ミサイル能力の強化による能力向上を図った。1977年にはその功績が認められ、米国最高の勲章である大統領自由勲章を授与した。

特使時代

その後フォード政権が1977年大統領選挙にて僅差で敗北(わずか1%差)し、民主党カーター政権樹立以降はしばらく引退し、製薬会社のCEOを始めとし、経済学や経営学の講師からシンクタンク樹立まで、数々の職をこなした。そして1981年に誕生した共和党レーガン政権下では、重要な外交問題でラムズフェルド氏がアドバイザーや特使として任命される事は多々あった。

レーガンと打ち合わせ中のラムズフェルド

この中で特に有名なのが、当時イラン―イラク戦争によって不安定となっていた中東情勢の解決を任務とする特使をレーガン大統領から任された一件である。

元々、1979年のイラン革命以降、米斯関係は完全に冷え切っており(現在でも継続中)、米国としてはイランの変わりに中東地方での同盟相手となり得るイラク側の勝利を望んでおり、間接的な支援も行っていた。逆にイランはシリア、北朝鮮、リビアとイスラエルから支援を受けていた。

フセインとの会見に臨むラムズフェルド

イラク政府はイラン政府と異なり、イスラム原理主義者によって支配されている訳でも無く、米国資本を始めとする経済自由化にも乗り気であった。しかしながら、イラクは当時サダム・フセイン氏が率いるバース党が政権を握っており、少数民族クルド人の弾圧や、少数宗派スンニ派優遇政策を進めており、米国としては公にイラク支援を行うのは難しい状態であった。戦闘で化学兵器を投入する軍隊との共同作戦は国際非難を浴びるからだ。しかしながら、核兵器とそのデリバリーシステムを自前で開発できる科学力・工業力を持つイラクを米国陣営に引き入れたいとレーガン政権は当時考えていた。

イラクは地政学上、アフリカ、地中海、中央アジアとペルジャ地域を繋げる非常に重要な地域であり、中東の「コア(核)」とも言われる場所だ。更にソ連もイラクを支援しており、非常に重要な地域を共産圏に渡さない為にもイラクの親米にするのは至急の課題であた。逆に、イラクがどちら側に属さず、覇権路線に走った場合、中東全体がイラクになびき、石油資源を人質にされる可能性もあった。

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そこで、ラムズフェルド氏は特使としてイラク政府には、イランーイラク戦争でのさらなる支援、パイプラインなどの経済援助と核開発黙認と引き換えに、少数民族政策の軟化を始めとする統治姿勢の変化と戦場での化学兵器使用中止と求めたが、交渉の進展は遅く、1984年にラムズフェルド氏は特使の職を辞する事となった。

イランーイラク戦争とは?
イラン・イラク戦争は、1980年から1988年にかけて、イラン・イスラム共和国とイラク共和国との間で行われた戦争。1980年9月22日に始まり、1988年8月20日に国際連合安全保障理事会の決議を受け入れる形で停戦を迎えた。 

イラン・イラク戦争

再び国防長官に

ラムズフェルド氏はその後、2001年に共和党ブッシュ(ジュニア)政権で国防長官に再任する事となった。この人選は、長年の盟友であるチェイニー副大統領がブッシュに進言したと言われている

ブッシュ大統領とラムズフェルド

ラムズフェルド氏は就任当初、前回道半ばであった米軍の改革を最重要課題とした。国防総省による2.3兆ドル(約260兆円)にも及ぶ支出用途記録が正確に残っていなかった事を発表し、問題解決と事後防止策を策定する事を表明した。

軍事力の面ではラムズフェルド氏は米軍の即応性を向上させ、全世界で機動的に展開するスマートでアジャイルな米軍へ組織改革を断行した。その結果定員は減らされる事となったが、この戦略はそれ以降の政権でも維持される事となった。

9/11とアフガン侵攻

しかし、2001年9月11日に同時多発テロ事件が発生した。その直後から、ラムズフェルド氏の記者会見と冷静な説明は評価され、「今もペンタゴンは動いている」「明日は通常業務」と、米国政府が麻痺していない事は対外メッセージとして発表し、米国がカオス状態になる事は防いだ。その後も、徹底したメディア対策によって、9/11後の米国世論がデモライゼーション(士気低下)に陥るのを阻止した。

グラウンド・ゼロにてジリア―二NY市長(当時)と共に会見に臨むラムズフェルド

しかし、その日からラムズフェルド氏に課された任務は大きく変わる事となった。テロとの戦い(The War on Terror)の始まりである。

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大きく分けて、ポスト9/11の米国戦略は二つあった。一つ目は事件の首謀者(アルカイダ)とそれを匿う勢力の撃破、そして将来、対米テロ行為を行える組織力を持つ中東イスラム系勢力の破壊であった。

アフガン政府がアルカイダとオサマ・ビンラディンを保護・支援している事が9/11の直後に発覚した。当時はムスリム原理主義者であるタリバンがアフガニスタンの政権と握っていた為、思想的に一致するアルカイダは共闘相手だった訳だ。

アフガン侵攻に関する記者会見にて

そこで、米軍中央司令部は6万の兵力を6か月間かけて動員し、通常戦法でアフガン侵攻を行う事を提示した。しかし、地理や、地域独特な文化の故、ソ連と大英帝国がアフガニスタン侵攻で多大な損失を被った経験から、ラムズフェルド氏は通常侵攻には反対した。結果的に米軍のアフガン侵攻は米軍、CIA、英軍、豪軍、加軍の特殊部隊を主とする戦力が投入され、戦略的空爆によって地上戦力を支援する事となった。この作戦は大成功し、アフガニスタンはたった2ヶ月で陥落する事となったが、ビン・ラディンはパキスタンへ逃亡し、死刑執行には至らなかった(2011年に米特殊部隊によって執行)

テロ国家の殲滅へ

アルカイダとタリバンの制圧により、9/11テロに直接的な関与が認められた勢力は壊滅的被害を受けたが、ラムズフェルド氏は「ここから半永久的にテロの脅威に怯えるのではなく、現時点で反米思想を明確に示している勢力を無力化するべきだ」と主張し、米国によるテロ組織・国家のせん滅が始まった。

テロとの戦いに関する米露協力に関する会見に臨むラムズフェルド

その中でも、特に厄介だったのはイラクである。イラクは、90年にクウェート侵攻を行い、米国主導の秩序に明らかに反旗を翻していた。

イラクは核保有の野心も持っている事は明らかであり、開発も行っているとされていた。そして、化学・生物兵器の生産能力と設備を保有しているのも周知の事実であった為、アルカイダに誘発され、テロ組織にこれらの兵器や製造技術を供与する危険性があった。これをラムズフェルド氏は「未知の未知(Unknown Unknowns)」と表現し、イラク対策を主張する事となった。

多国籍軍の司令官達と記者会見に臨むラムズフェルド

しかし、9/11直後の当時はイラクが大量破壊兵器を保有しているとの確証は無く、仏独は視察の強化など、外交的圧力を強める事を主張した為、アフガン侵攻と同時に行われる事はなかった。ただ、情報機関には不確実だが、イラクが大量の大量破壊兵器を保有している可能性を示唆する報告書なども提出されており、実態は誰にも分らない状態であった。それにも関わらず、ラムズフェルド氏はイラクが「確実に」大量破壊兵器を保有していると発言した

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しかしながら、ラムズフェルド氏やチェイニー副大統領はテロの脅威を除くため、強くイラク侵攻を訴え、米英は2003年7月にはイラク侵攻を開始した。ここでも、ラムズフェルド氏は米軍が主張した物量作戦による侵略では無く、14万5000の兵力で、重要インフラの戦略的破壊を通じた迅速な侵攻を計画した。結果的に首都バグダッドは1か月以下で陥落し、迅速な勝利を米国は得た。12月にはサダム・フセインも確保され、組織的な抵抗は終了した。

イラク全土制圧の後、米軍による大量破壊兵器の捜索が始まったが、少量の化学・生物兵器以外は見つからなかった。しかし、NBC(核、生物、化学)兵器全ての製造設備が建設されていたことは確認されており、数年後にはイラクがそれらを大量に保有していた可能性は否めない。

終結と引退

国防長官退任式でのラムズフェルド

ただ、「ある」と言ったものが無かったのは事実であり、これにより、イラク侵攻を強固に主張したラムズフェルド氏は批判の的となる。しかしながら、ラムズフェルド氏は、民衆を虐殺し、テロに加担しうる強力な反米勢力を打倒した事は正しかったと主張している

更に、テロとの戦いで捕虜となった戦闘員に対する「強化尋問(Enhanced Interrogation)」が問題となる。強化尋問とは、物理的な怪我を負わせないが、多大なる精神的苦痛を負わせる尋問手法であり、反対派からは拷問と同じと言う批判も強くある。ラムズフェルド氏は、この尋問形式をテロリストに対して認可した事に対して、特にリベラル派からは批判されている。

これらのスキャンダルもあり、ラムズフェルド氏は、2006年に国防長官を退任し、政界から引退した。その後は、個人サイトで、本人が関わった政策決定に関する(非機密)文書を公開したり、イラク戦争に関する本の執筆なども行っており、自らの政策判断を徹底的に擁護する姿勢を見せている。

功罪

グアンタナモキャンプに収監されているテロリスト

筆者もこの記事の執筆にあたり、数々の資料を読み、反ラムズフェルド/イラク戦争派の主張も読んだが、ラムズフェルド氏の行動は十分擁護可能な事だと考える。第一に、非政府戦闘員による非対称型戦闘と言う未曽有の危機が米国を襲っていた以上、可能な対策は最大限行わなければ米国のみならず、日英などの同盟国の安全は保障されなかった訳である。

今から見れば、イラクはテロ支援をする可能性は低かったと主張する人もいるが、それは事後論であり、反米姿勢でNBC兵器を開発していてた独裁国家を信頼するなどあり得ない話だ。確かにISISなどの新しい脅威もイラク崩壊によって生まれただろう、しかし、ISISの脅威など、暴走したイラクの脅威とは比べ物にならない。イラクは北朝鮮と違い、地域の安定を崩す行動を止めに入る中国の様な国を必要としない。自給自足で科学技術も高いと同時に暴力的な反西洋思想を掲げる国を無力化できるのであれば、するべきなのである。

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protest against US policy on torture
「拷問」に抗議する活動家

イラク戦争によって多数のイラク国民の生活水準が低下したのは間違いない。しかし、クルド人やスンニ派に対する虐殺・弾圧が終わったのも事実だ。外交問題は一面的では無く、多角的な要因を考慮しなければならない。「戦争=ダメ」や都合の良い事後論で複雑な政治的判断を批判する事は無意味であろう。

ラムズフェルド氏は改革スピリッツを持つ、行動力のある政治家だった。イラク戦争ばかり注目されるが、経済政策でも多大なる功績を残している事を忘れてはいけない。ただ、そのバカ高い行動力が逆に彼を目立たせ、テロとの戦いでブッシュ政権の行為に対する批判の集中砲火を浴びさせられてる。中には、彼の事を「虐殺者」だとか「裁判で処罰されるべき」と主張する人もいる。しかし、彼の生涯の全てを政府の改革と米国民の安全を守る為にささげた訳である。このような批判はどう考えてもおかしいであろう。彼は強烈な愛国家であり、ネオコン運動のレジェンドと呼ばれるに値するだろう。