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あなたは「人間カルト」ではないですか? —ゲストライター記事

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「カルト」はなぜ問題なのか?

「カルト」という存在がある。具体的には、オウム真理教であるとか、そういう記憶が比較的新しい。

なお、この「カルト」という言葉は政治界隈でも用いられている。「立憲カルト」という言葉が政治界隈では見られる言葉だが、これはまさに、狂信的な立憲支持層に対して、その状態を形容するために用いられている用語である。

ではそもそも、「カルト」のなにが問題なのか。

先ほど例に挙げたオウム真理教にしろ、いわゆる立憲カルトにしろ、狂信性というものが一般には問題視されている。

では、狂信的であると何が問題であるのか。

それはまさに、オウム真理教がひき起こした地下鉄サリン事件であったりとか、政治的党派性に基づく攻撃的行為だとか、そういった具体的な行為であろう。

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地下鉄サリン事件は多くの人を殺したし、政治的な党派性は時に攻撃性となり、精神攻撃として、敵党派の人間に冷徹に向けられる。そういうものを引き起こすからこそ、狂信は問題とされる。

ではなぜ、狂信していると、そういった問題行為をするようになるのだろう。

端的に申し上げれば、「視野が狭い」からだと思う。

カルトに対して否定的な多くの人に意見を聞いたとしても、視野が狭いから問題行動を起こすんだという理屈は、一定の理解を得ることができるのではないか。視野が狭いと、現実認識が鈍ってしまう。

この世界にはいろいろな人間がいて、人の数だけ、視点というものが存在している。視野が狭いと、別の視点を切り捨ててしまう。自らの視点を絶対視してしまう。結果的に、問題とされる行動を起こしてしまう。

私はこのように考える。

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我々人類は「人間カルト」だ!

では我々は、視野を広く持てているのか、問題的行動の抑止のために、盲信を避けることができているのか。

私はこれを「否」だと思う。

我々は、「人間」というものを、盲信している。ほぼ例外なく、「人間カルト」の盲信者である。何気なく暮らしている一般市民ほどに、「人間」という存在を特別視している。

無論、適当にこんなことを言っているわけではない。私には確かな根拠がある。

その根拠はまさしく「人権の過大視」だ。

まず、我々は人権というものを過大視している。21世紀の昨今、「人権」というものは普遍的な概念となっている。人間誰しも、生まれながらに人権があり、ハラスメントなどから守られるべきだという考えが、常識と化している。

だが疑問が生じる。「人権」なんてものが自然の中に存在するのかということだ。

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例えば、野生のライオンや虎が、人間を殺したとする。 そうしたときに果たして、「人権侵害」の要件は満たされるのか。人間を殺した野獣は「人権蹂躙」をしたとして、人間の法律によって裁かれるのか。

私が無知だからかもしれないが、そんな例は聞いたことが無い。基本的に「人権侵害」とは、人間から人間に対してのみ適用されるような気がする。

別の例を上げてみる。

大地震で人が死んだ。さて、大地震は人権を損なったとして、法律で裁くことができるのか。これについても聞いたことが無い。私が浅学非才なだけだとは思うが、大地震に対して「人権侵害だ」と非難する声は目にしたことが無い。

つまり何が言いたいのか。

「人権」なるものは、人間社会においてしか適用されないということだ。

人間社会の構成員ではない野獣は、仮に人間を殺したとしても、人間の法律では裁けない。大地震が人を殺したとしても、大地震が「死刑」になることは無い。「人権」なんてものは、所詮は人間が勝手に作った概念にすぎないし、大自然においては、無力に等しいということだ。

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さて、そもそもの話は、「人間が人間というものを特別視しているか」という話をしていた。

大自然において「人権」などは無力だと知っているならば、「人権は誰しも持っている」などとは言えないはずだ。大自然は、容赦なく、冷徹にも、我々人類の命を奪ってくる。法律によって裁くこともできない。人権は普遍的であるという考え自体が、壮大な思い上がりであり、人間の絶対性というものを盲信している証になるのではないか。

要するに、普遍的に人権は宿るという考え自体が、「人間カルト」が「人間カルト」たるゆえんだ。

「人間カルト」として「人間カルト」を否定する

これまでの考えによって、人権とは普遍的なものではなく、人間によって作られただけの道具に過ぎないと分かった。

「であるならば、人権などは尊重せずに、人類は自由を謳歌すべきだ。人権などは無いのだから、守る必要はないんだ。「人間カルト」の考えは欺瞞的だから、従う必要はないんだ。」などと言いたいわけではない。

「人権は普遍的ではない」

このことを認識できるのかという話だ。

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本質的なところ、いくら人権などは欺瞞や幻想だと言っても、それ自体が無価値なわけではない。人間には人権がある。という考え自体が、我々の身を守ってくれている。「人権」が尊ばれない社会とは、北斗の拳のような世界だ。理由なく人命が奪われ、理由なく人間の尊厳が脅かされる。そんな社会がお望みだろうか。

人間は基本的に、生きていたいのだと思う。理不尽に命を奪われたくないのだと思う。そういった願望がある。

しかし、大自然の原理は冷徹だ。人間の命などは容易に奪われる。

酸素が無くなれば人間は死ぬ。飢えれば人は死ぬ。原子力爆弾を投下されれば人間は死ぬ。火に焼かれたら人間は死ぬ。野獣に襲われたら、人間は死ぬ。包丁で心臓の急所を刺されたら、人間は死ぬ。

人間がいくら生を望もうが、人間は弱い生き物だ。ちょっとしたことで、あっけなく死んでしまう。寿命にだって逆らうことはできない。

だからこそ私は、人権が必要であると思う。「人間カルト」とは必要な盲信であると考える。

私は人間だからだ。大自然の摂理などは私には関係ない。私は人間なのだから、人間の生存できる道を希求する。

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「人権」というのが大自然においては無力だと知りながらも、僅かでも人類を守るために、「人権」という建前を尊重する。人権などは自然には存在しない、という厳然たる事実があろうとも、それは人間には関係のないことだ。

これはぶっちゃけ我儘だ。人間の傲慢であると思う。大自然の原理に逆らい、無条件に人間が守られるべきなどという考えは、 欺瞞だし、幻想だし、あり得ないことだ。

しかし仕方がない。私は人間なのだから、人間というポジショニングで、人間という陣営に属する個体として、コミュニティの幸福を希求する。

だからと言って、自然の摂理を無視するわけではない。「人権などは自然には存在しない」という現実を認識することは止めない。その認識を頭に入れながらも、「人間の傲慢」であることを認識しつつ、「人間カルト」を信じることにする。

「人権などは自然には存在しない」という考えと、「人権は普遍的である」という考え、一見矛盾する考え方だが、実はこれらには共通項がある。

視点に違いはあっても、どちらも「人権」というものについて語っている。そこに本来、善悪は無い。どちらも間違いなく、「人権」に対する視点だ。自然から見れば、人権などは存在しないわけだが、人間から見れば、人権は確かに存在している。それは間違いがない。単に観点が異なるだけだ。

この二つの二律背反は、実のところは並び立っている。

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「視点の違い」という前提条件において、どちらもが「人権」という概念を正確に評している片方だけの視点では、完璧ではないかも知れないが、観点が並び立つことによって、「人権」というものの全体像を可視化してくれている。そうは考えられないだろうか。

故に私は、「人間カルト」という自らの立場を自覚しながらも、「人間カルト」を否定するのだ。私はあくまでも、「人間カルト」として、「人間カルト」を否定する。そこに矛盾はない。

「人間カルト」の肯定と、「人間カルト」の否定は「並立」する。


ライター:渡邊坊 Twitter:@KENSEIKAI_KOHO