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「核兵器廃絶を諦める」ことこそ理想論である―新しい方法を考えよう

「核兵器廃絶を諦める」ことこそ理想論である―新しい方法を考えよう

1 はじめに

 昭和20(1945年)8月6日8時15分、広島に原爆が投下された。それから75年後の今年の8月6日、おとな研究所でマクロス氏が投稿した記事が、賛否両論を巻き起こしている。
 しかし、結論から言って私は氏の意見に賛同できるものではない。また、おとな研究所が「核廃絶を諦めることを主張するメディア」と捉えられてしまうのもいささか不本意である。そこで、私は、長崎に原爆が投下されて75年目(なお、長崎は8月9日11時2分に投下)を迎える本日、反論記事を掲載することにした。まず、前半(2項、3項)でマクロス氏に反論をしたうえで、後半(4項、5項)で核に関する自己の見解を展開する。

2 核の必要性を認めるほうが理想主義だ

 まず、マクロス氏の主張の骨子は、「原爆は残虐で、無差別で、人間を苦しめる最低な兵器だ。しかしながら、我々が史上初めて75年も大国間で戦争が起きない人類史上類見ない平和な時代を謳歌できているのも、この憎たらしい原爆があってこそである。」というものである。彼は、一貫して核兵器の必要性を認めるような立場を取っている。しかし、日本国で核兵器の必要性を認め、さらに一歩進んで核を保有することは可能であるのだろうか。

(1)法的面
 まず、日本が核兵器を保有することが法的に許されるのかを検討する。少し長くなるが、政府の公式見解を紹介するため、昭和53(1978)年3月11日の真田内閣法制局長官の答弁を引用したい。「峯山委員の御要望によりまして、一昨日、書面をもってお示しいたしました『核兵器の保有に関する憲法第九条の解釈について』という文書を朗読いたします。
 一 政府は、従来から、自衛のための必要最小限度を超えない実力を保持することは憲法第九条第二項によっても禁止されておらず、したがって、右の限度の範囲内にとどまるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは同項の禁ずるところではないとの解釈をとってきている。
 二 憲法のみならずおよそ法令については、これを解釈する者によっていろいろの説が存することがあり得るものであるが、政府としては、憲法第九条第二項に関する解釈については、一に述べた解釈が法解釈論として正しいものであると信じており、これ以外の見解はとり得ないところである。
 三 憲法上その保有を禁じられていないものを含め、一切の核兵器について、政府は、政策として非核三原則によりこれを保有しないこととしており、また、法律上及び条約上においても、原子力基本法及び核兵器不拡散条約の規定によりその保有が禁止されているところであるが、これらのことと核兵器の保有に関する憲法第九条の法的解釈とは全く別の問題である。
 以上のとおりでございます。」
 政府見解のポイントは、以下の3点である。①日本が核兵器を保有したからと言って直ちに憲法9条2項違反にはならない、②非核三原則(核兵器を、「持たず、作らず、持ち込ませず」という政治的原則)などを考慮して①以外の憲法解釈を取る余地はない(非核三原則には法的効力がない)、③もっとも、日本は原子力基本法と核不拡散条約により核保有が禁止されている。これが、実務上ゆるぎない見解となっている。
 憲法上核保有の余地はあるものの、法律上および条約上核保有は禁止されているため、日本の核兵器保有は法的に禁止されていると言える。このような中で、核保有禁止を解除するには、法的にも相当ハードルが高い。

(2)歴史的・政治的側面
 言わずもがな、日本は2度も核兵器による攻撃を受けた国である。広島・長崎の両都市には、平和公園や原爆に関する資料館が設置されている。両県や近隣の県の子どもたちは、核兵器の恐ろしさについて、修学旅行などを通じて勉強する機会がある。このような教育は、行き過ぎた「平和教育」として批判を浴びることもある。確かに、一部教員が、日本の防衛に関する特定の政治的思想と絡めて「教育」と言う名の洗脳を行うことは、あってはならないことだ。しかし、核兵器が実際に使用された場合に、どのような悲劇が待ち受けているのかを学べるのは、貴重な機会である。なお、広島・長崎では、「語り部」と呼ばれる被爆体験者の方の話を、直接聞くことができる。私も、修学旅行で過去に「語り部」のお話を聞いたことがあり、被爆者が核兵器の恐ろしさを強調されていたことは、今でも強く印象に残っている。被爆者の方がご存命のうちに、みなさんにも聞いていただきたい。
 さて、核兵器がいかに悲惨かということが語り継がれているわが国においては、いまだに核兵器に対する抵抗が強い。そしてこのことは、世論調査にも顕著に表れている。https://www.sankei.com/politics/news/170918/plt1709180034-n1.html
 産経新聞の平成29(2017)年9月の世論調査においては、非核三原則見直しについて、「議論をすべきでない」という回答が53.7%となっており、「議論すべきだ」の43.2%を大きく上回っている。非核三原則を見直すということは、核兵器の必要性と正面から向き合うことを意味する。しかし、日本では依然過半数がその議論すら反対するという態度を示しており、非核三原則を見直すことは現実的ではない。

(3)国際的視点
 まず、日本は戦後75年経った今も、「敗戦国」として、近隣諸国から「悪者」のように扱われている。そして、「戦後レジームからの脱却」を謳った安倍晋三首相ですら、靖国神社に1回参拝し、安保法制を成立させたこと位しか、当初の「戦後レジームからの脱却」に係る公約を達成できていない。このままでは、憲法改正も夢のままで任期が終わってしまう。あれほど威勢の良いことを就任前に述べていた安倍首相にできなかったことが、次の首相になったとしてもできるようになるはずがない。
 仮に、日本が「非核三原則」の見直しに踏み切った場合、近隣諸国が「日本軍国主義の再来だ」と騒ぎたて、場合によっては世界中から批判を受ける可能性もあり得る。その時に、国際世論を跳ね返せるほどの力が、今の日本にはあるのか。また、日本が核を保有するようになった場合、東アジアで核軍拡競争が起こる可能性も高い。結果的に核戦争のリスクが高まっては、元も子もないのである。
 以上より、日本が核兵器の必要性を認めること、すなわち核廃絶論から距離を置くことは、法的にも、国内政治・歴史的にも、国際政治的にも、現実味のない理想論に過ぎない。

3 核の傘に守られながら核廃絶を主張するという欺瞞?

(1)確かに欺瞞はある
 確かに、マクロス氏に同意せざるを得ない点もある。日本が、米国の核の傘に守られながら、核廃絶を主張してきているという点である。以下引用すると、「日本国は戦後、『核を持たない、作らない、持ち込ませない』非核三原則を国是としてきた。しかしながら実情は米国の核の傘により、目と鼻の先にある共産主義の脅威から守られてきたのである。これを考えると『日本は非核国家である』と言う主張は虚構である事が分かる。日本は『非核国家のふりをしながら、核の抑止力に縋ってきた国家』なのだ。」という主張である。この点については、マクロス氏の述べるとおりである。
 そして、このような欺瞞は憲法9条においても見受けられる。日米安保や自衛隊、安保法制による平和を享受しながら、自称「護憲派」たちは、集団的自衛権や戦力保持を明文で認めるための憲法9条の改正に反対している。詳しくは、井上達夫氏の『憲法の涙 リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください2』を読んで欲しい。

(2)その一方で・・・
 その一方で、「戦力保持」や「集団的自衛権」といった、主権国家なら認められてしかるべきものと、「核兵器の必要性」は一線を画している。前者と後者を同列に並べて議論することは、正直難しいだろう。加えて、唯一の被爆国であると言う特殊事情を持つ日本が、核兵器の必要性を正面から認めるのは難しかった。他方、日本の周辺には、今も昔も複数の核保有国があり、軍事力の均衡のために日本は米国の核の傘に入るしかなかった。また、第2次世界大戦で日本と敵国であったアメリカも、日本の再軍事大国化を望んでいなかったため、日本の核保有を阻止したかったという事情もある。
 以上のような状況のもとで、対内的に核廃絶を主張しながら、対外的には米国と安保条約を結び核の傘に守ってもらうという矛盾・欺瞞は、やむを得ないものであったのだろう。
 さらに、核廃絶を主張する広島・長崎の人々が、戦後75年核兵器の悲惨さを訴え続けてくれた。そのおかげで、核兵器の非人道性が世界に周知され、世界で核兵器が再度使われることなく戦後75年を迎えることができた。核廃絶の主張が、核兵器の使用を抑止したという面は、否定できない。だからこそ私は、過去に被爆した自治体の首長が独自に核兵器禁止条約への加盟を求めることを、頭ごなしに批判することは、控えたい。マクロス氏は、かかる点について検討が不足していると、私は考える。

4 核廃絶の議論に欠けている視点

 私は、核廃絶という目標を放棄することには反対である。しかし、唯一の被爆国として日本が最も重視すべきことは、日本自身が二度と核兵器の攻撃にさらされないことではないだろうか。核を落とされると多くの無辜の国民が犠牲となることは、広島・長崎の経験からも明白である。原爆で命を落とされた我々の祖先も、日本で二度と核兵器が使われないことを望んでいるはずである。
 そうすると、現在の「核廃絶」の議論には、私は危うさを感じる。核廃絶を目指すことと、日本が非核三原則を堅持することに異論はない。しかし、核が廃絶されるまでの間、どのように国民と国家の安全をどのように守っていくのか、十分な案が示されていないためである。核の傘に頼らないと宣言した結果、もし日本が再度の核攻撃を受けてしまったら、犠牲になった祖先が浮かばれない。
 現在、核兵器禁止条約への加盟の是非が取りざたされている。この条約に加盟する場合、核の傘に守られてきた日本にとって、安全保障上マイナスの影響が出るのではないかという指摘がなされている。
 国民民主党・立憲民主党・社会民主党・日本共産党(以下、「左派野党」と言う)は、核兵器禁止条約への加盟を求めている。左派野党は国政政党であるから、広島・長崎の首長らとは違い、現実的な安全保障策を示すべきである。核兵器禁止条約に加盟した場合、核兵器及び核の傘に依存せずにどのような安全保障を構築するのか、条約加盟を推進する立場の左派野党は、示すべきではないか。

5 別の道を探るべきである

 もし、核の傘に頼らずに防衛体制を整えようとする場合、攻撃能力の保持は不可避である。対象国が核攻撃を思いとどまらせるほどの打撃力を、日本自身が持つべきだからだ。しかし、敵基地攻撃能力をはじめとする攻撃能力の保持について、左派野党の多くが反対という立場を示している。そうであれば、どのように日本国民や国家を守るのか。まさか、酒を飲みかわせば分かり合えると考えているのか。
 私も、日本は今後も核廃絶を目指すべきであると考えている。この点でマクロス氏とは考え方を異にするし、核廃絶派を否定するような主張には反対である。だからこそ、その点については、この記事で反対した。しかし、左派野党をはじめとする核廃絶派(とりわけ「核兵器禁止条約」加盟推進派)こそ、どのように日本を守るのか、対案を示す道義的責任がある。対案を示さずに、核兵器禁止条約への加盟のみ要求するのであれば、無責任である。
 そこで、新しい方法を探るべきではないか。核兵器禁止条約とは異なる新たな枠組みで、核廃絶を目指す努力を続けるべきであると、私は考える。そのためには、核を巡る国民的議論は必要であり、核に関する議論がタブー視されている現状は望ましくない。また、政府は、核兵器に頼らずわが国を守るために、対象国の基地や政府機関をピンポイントで攻撃する能力を持つことも検討すべきである。憲法との抵触を恐れず、現行憲法でできる限りの努力を続けるべきである。
 75年間核廃絶に向けて活動を続けてくださった方々に感謝や敬意を持ちつつ、現実的な安全保障策とともに核廃絶への方法論も考えて行きたい。

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