そろそろ知りたいミャンマー史 ―なぜ民主化とクーデターを繰り返すのか


新型コロナウイルス感染症の感染拡大が止まらない中、世界中を震撼させる出来事が起こった。

東南アジアの国・ミャンマーで「民主化運動の女神」と称されたアウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相が、国軍によって拘束・自宅軟禁されたのだ。

同国の事実上の指導者である同氏だが、側近とも言われるウィンミン大統領も拘束されているため、ミャンマー政府は一時無政府状態となったと見られる。

既にミャンマーではミン・アウン・フライン国軍総司令官が立法、司法、行政の三権を掌握する国家指導者となっており、事実上のクーデターが成功したということになる。

ではそもそもなぜこのような事態を引き起こすに至ったのだろうか。ミャンマーといえばイスラム教徒の少数民族・ロヒンギャへの迫害が今も続いており、難民キャンプからは今回のクーデターではスー・チー氏拘束を歓迎する声も聞かれる。

スー・チー氏拘束に歓喜、ロヒンギャ難民キャンプ:AFPBB News

背景を考えればこうした事柄は、全て歴史的な問題として考える必要が出てくる。

本稿はミャンマーの近現代史を再度確認することで、クーデターを総体的に考える機会としたいと思う。

イギリスによる統治時代

長きに渡って王朝による君主制が続いてきたビルマ(ミャンマーは文語国名。以後時代変遷とともに使い分ける。)だったが、隣国・インドを統治するイギリスと3度に渡って「英緬戦争」を繰り広げる。1852年に起きた2度目の戦争によってビルマは国土の半分を失い、1885年に起きた3度目の戦争で完全に敗退。1886年に英清ビルマ条約が締結され中国・清がイギリスのビルマの宗主権を認めると、ビルマはイギリス領インドの1州となった。

イギリスはビルマ統治にあたって、インド統治と同じ手法を取る。すなわち「分断の扇動」だ。(イギリスがインドに於いてヒンドゥー教徒とムスリムの対立を煽ったことは周知の事実である。)

具体的には、イスラム教徒のインド人華僑にビルマの経済・金融を担わせる一方、少数民族をキリスト教に改宗させて軍事力として統治に利用した。この結果国民の大多数を占めるビルマ人はこれらの民族のなかで最下層に落とされ、軍と警察を握ることになった少数民族に対する憎悪として残ることになったのである。

独立までの道のり

第一次世界大戦以降に独立運動が本格的に始まり、1930年には「タキン党」の通称で知られる独立運動組織・我らビルマ人連盟が結成される。この頃にはビルマ人による運動や政治組織が乱立していたが、このタキン党と「ビルマ共産党」に参加していたのがビルマ独立の父として知られるアウンサンだ。

ファイル:ユニフォームのアウンサン.jpg
「建国の父」アウンサン将軍

日中戦争が起こっていた当時、ビルマはイギリス領であったため中華民国の蒋介石を支援する「援蒋ルート」としても利用されており、日本軍はこれを遮断するためにタキン党を支援することに決めた。

海南島などで日本軍に軍事訓練を受けていたアウンサンらタキン党急進派は、日本軍のビルマ工作特務組織「南機関」の支援を受けてバンコクで「ビルマ独立義勇軍」を結成する。1942年にはいわゆる「ビルマの戦い」で国内のイギリス軍掃討に成功。1943年、植民地時代に首相を務めたがイギリスに反抗し収監されていたバー・モウを政府首班として迎えた上で「ビルマ国」を建国した。またビルマ独立義勇軍は「ビルマ防衛軍」ついで「ビルマ国民軍」に改組されることになった。国防相にはアウンサンが就任し、司令官には独立義勇軍の結成メンバーであるネ・ウィンが就任する。しかしビルマ国の実態は日本軍の傀儡政権だったためアウンサンは次第にバー・モウ政権を懐疑的に見るようになり、1944年のインパール作戦失敗を目の当たりにしてついにイギリス側に寝返ることを決意する。

彼は未だ非公然メンバーとして参加していたビルマ共産党などの左派も糾合した上で抗日組織「反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)」を結成。ビルマ国民軍もこれに参加し、連合国軍は独立を認める気はなかったものの利用価値があると判断し支援。3ヶ月に及ぶ抗日戦争の末、最終的に日本軍はビルマから撤退し、バー・モウは日本に亡命したのだった。

抗日戦争に勝利はしたものの、連合国軍は独立を認めることがなく、英領ビルマが再興される流れとなったためにアウンサンは苦悩することになる。ビルマ国民軍は連合国軍指導のもとビルマ愛国軍、さらにビルマ軍へと改組されたが、彼は軍を去ってAFPFLの総裁に就任して独立運動を指揮することとなった。また1946年にはビルマ共産党がAFPFLを離脱。一部が武装闘争に走ることになる。1947年にはイギリスの首相アトリーと「アウンサン・アトリー協定」を結んで1年以内の独立を約束させた。だが彼は祖国の独立を目前にして6人の閣僚とともに暗殺される。黒幕はバー・モウや先の抗日戦争の際に日本側についた前首相のウー・ソオらとされたが、イギリスの影を指摘する声もある。

独立とクーデター

後継のAFPFL総裁には憲法制定会議の責任者も努めたアウンサンの相棒とも言えるウー・ヌが就任。1948年に正式にイギリス連邦から離脱してビルマ連邦として独立した。ウー・ヌは初代首相に就任し、国防相にはネ・ウィンが就いた。しかし独立時の政情は極めて不安定であった。まず当時のビルマ国軍は旧ビルマ国民軍や左翼、少数民族らの寄合いであり、特に旧国民軍と左翼・少数民族は対立していた。また少数民族の一部は独立運動開始し、1949年には国共内戦で破れた中国国民党の残党との戦闘にもあたらなければならなかった。

こうした事態を強大な軍事力で抑え、国軍をビルマ族中心としてまとめ上げたのがネ・ウィンだったのである。一方AFPFLは万年与党化したことで腐敗が進み、ビルマ共産党の伸張を許すことになるなどして政局の不安定化を生み出す原因となっていた。1958年、政局の安定と選挙の安全な実施を望むウー・ヌは、ネ・ウィンに対して暫定内閣の組閣を打診し、一時的に軍政が敷かれることになった。2年後の総選挙でAFPFLはかろうじて政権を維持するが、ネ・ウィンによる権力の肥大化は止まらず、結局1962年に軍事クーデターを起こしてウー・ヌら政府首脳を拘束。AFPFLを解散に追い込んだ。

「ネ・ウィン」の画像検索結果
ネ・ウィン

クーデター後しばらくは国軍上級士官らによる評議会が全権を握っていたが、ネ・ウィンによる独裁に正当性を持たせるため、「ビルマ式社会主義」を謳う新党「ビルマ社会主義計画党(BSPP)」による一党独裁を敷きネ・ウィン自ら議長の座についた。国名も「ビルマ連邦社会主義共和国」に改称され、ネ・ウィンは大統領にもなる。

同政権下ではビルマ共産党を弱体化させるなどの功績を上げる一方、党内の大規模粛清や外交・経済両面での徹底した鎖国政策でインフレを招いた。国民は困窮し、内外の批判を浴びることになった。彼は1981年に大統領を辞任するが以後も党議長として政治の「裏舞台」を取り仕切ったのだった。

民主化運動と軍政の再来

当初は腐敗した政治の打開と少数民族による独立運動抑え込みなどで国民から一定の支持を受けていたネ・ウィンだったが、長期独裁の結果であるこうした状況に対しての全国的な怒りは頂点に達していた。

事の発端は他愛のないことだった。1988年3月、ラングーン工科大学近くの喫茶店で地元有力者の息子と学生の喧嘩が起きる。騒ぎを聞いて駆けつけた警官が学生に不利な対応をしたため同大学の学生らがデモで抗議。警察と衝突し、うち1人の学生が射殺されるという最悪の結末を迎えてしまう。抗議デモはさらに拡大し、政府は治安部隊を出動させ、1万数千人のデモ参加者のうち200人を超える若者が虐殺される大惨事に発展したのだ。さらに逮捕された学生らは護送車ですし詰めにされ41人が窒息死し、女子大学生が兵士に暴行凌辱されるという信じ難い事件も起きている。

この一件は国内の独裁政権に対する不満に一気に火をつけ、全国的な民主化運動となっていった。当時の運動を率いていた多くが学生であったが、少なくない数の市民もこれに加わっている。あまりにも大きな運動に驚いたのはネ・ウィン本人だった。1988年6月、彼はBSPP議長を辞任し、事態の収束を図るため治安警察出身のセイン・ルインが大統領兼BSPP議長に就任する。だが彼が軍政独裁路線の継承を明言したうえ、ネ・ウィンも「国軍は国民に銃口を向ける」と語ったため運動は収まるどころかむしろ激しさを増し、ネ・ウィンはセイン・ルインを切り捨てざるを得なかった。ネ・ウィンはその後も2002年に亡くなるまでビルマ政界に隠然たる権力を持ち続けた。

全ビルマ学生連盟は8月8日にビルマ全土で一斉にデモを行うことを呼びかけ、学生や一般市民のみならず仏僧、政府職員や軍人らも巻き込んだ大規模デモとなった。「198888日」に行われたため、同年3月以来の一連の運動を「8888民主化運動」と呼ぶ。国軍はこれに対して無差別発砲を行い弾圧した。またこのデモを受けてセイン・ルインは大統領兼BSPP議長を辞任し、法律家のマウン・マウンが就任する。

8月26日にはシュエダゴン・パゴダ前の集会に、建国の父・アウンサンの娘で病気の母を看護するためイギリスからビルマに帰国していたアウンサン・スーチーが演説を行う。それまではビルマ国民にとって「建国の父の娘」という情報しかなかった彼女を、たちまち「民主化運動の象徴」へと押し上げたのだ。彼女の演説は「民主主義、人権、国民の義務と権利」と「仏法、道徳、人間としての生き方」がそれぞれ半数を占めていた。

Aung Sang Suu Kyi Back To Work In Burma
アウンサン・スーチー氏

特に「真理」「慈悲」といった仏教固有の思想を多用して軍事独裁を批判し、民主化運動への肯定へと結びつけたことはビルマ人の大半を占める仏教徒の精神面に訴えかける役割として十分だろう。民族的・階層的な分断が多いビルマで大衆運動へと結びつける「ビルマ型ポピュリズム」の形成である。

混乱の最中、動いたのは国軍だった。9月18日、BSPPによる政権維持は不可能と判断したソウ・マウン参謀総長率いるビルマ国軍はクーデターを実行し、マウン・マウン大統領は解任に追い込まれた。軍は国会を強制的に解散させて軍事政権である「国家法秩序回復評議会(SLORC)」を設置し全権を握る。SLORCは国名をビルマ連邦に戻し、総選挙の実施を公約。民主化運動は指導者を得てますます勢いを増していたが、新政権の弾圧も更に厳しくなり、1週間で1000人以上の犠牲者を出した。一部はタイ国境に逃れるなどして抵抗したものの、徐々に封じ込めを余儀なくされた。

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民主化勢力の政権獲得まで

9月27日、ついにアウンサン・スーチーを書記長とする政党「国民民主連盟(NLD)」が結成される。SLORCによる総選挙公約の後には少数民族政党も含めて数多くの政党が組織されたが、全国的な民主化運動を集約する組織としてはNLDが圧倒的だった。しかし1989年には自宅軟禁され、書記長の座を追われることとなってしまう。

一方のSLORCは、旧BSPPの党員ともに「国民統一党(NUP)」を結成。来たるべき総選挙に備えた。またこの時期、SLORCは国名を「ミャンマー連邦」に改める。(以後国名を「ミャンマー」と呼称する。)

そして1990年ついに総選挙が行われ、アウンサン・スーチー率いるNLDは492議席中392議席を獲得する大勝を収めた。一方SLORCが支援するNUPは10議席にとどまる大敗を喫したのである。この結果を受けてソウ・マウンらSLORCは「民主化よりも治安維持を優先する」として議会の招集を拒否。国際社会の激しい非難を浴びることとなった。ソウ・マウンは1992年に健康を理由に引退。公認のSLORC議長にはタン・シュエが就任した。さらに1993年には外郭団体である「連邦団結発展協会(USDA)」を結成。NLDなどの活動に対する積極的な妨害活動を主導した。

一方NLDや少数民族政党の選挙当選者は独自に国内外で会合を持ち、亡命政府である「ビルマ連邦国民連合政府(NCGUB)」を樹立。度重なる弾圧に連帯して対応する主体となった。1995年にアウンサン・スーチーは軟禁から開放されるが、移動制限や政治活動の制限が相次いで行われ、また再度の自宅軟禁も繰り返される始末だった。

SLORCは1997年に「国家平和発展協議会(SPDC)」に改組。軍事政権の長期化が予想された。事実その後も2000年代まで国内の民主化勢力を弾圧しつつ政権を維持し続けた。タン・シュエは2003年に首相の座をキン・ニュンに譲る(SPDC議長、国軍司令官には留任)。しかし彼が民主化に積極的だったため保守派と対立し、失脚。後任首相にはタン・シュエの側近であるソー・ウィンが就任した。

状況が変わったのはソー・ウィンが亡くなる2007年である。同じくタン・シュエの側近で後任首相のテイン・セインは軍政主導ではあるものの行政改革を断行。2008年には総選挙の実施などを盛り込んだ新憲法の国民投票を実施して民主化を図った。だがNCGUBは中立性に疑問があるとして反対の立場を示した。

以降もSPDC主導の政治改革は進み、2010年6月にはUSDAを改組し「連邦団結発展党(USDP)」を結党(党首・テイン・セイン)。11月には総選挙が実施された。

「テイン・セイン」の画像検索結果
テイン・セイン

だがNCGUBはここでも中立性に疑問があるとして選挙そのものをボイコット。NLDの一部勢力は総選挙に参加したものの、振るわなかった。結果はUSDPが大勝を収めた。

選挙の結果を受け、タン・シュエは政界を引退し国軍司令官をミン・アウン・フラインに譲る。またSPDCは解散し、議会はテイン・セインを大統領に指名した。国軍は勢力を失ったかに見えたが、議会の議席の4分の1は国軍最高司令官が指名するため、変わらぬ影響力を保持し続けたのだ。

一方のNLDは当初頑なな態度を取っていたものの、アウンサン・スーチーの自宅軟禁解除や政治犯の釈放などもあり政府側との対話に応じるようになる。この頃にNCGUBは解散した。アウンサン・スーチーはその後に行われた2012年の議会補欠選挙に立候補し勝利。以後野党議員として活動していく。

2015年、再び総選挙が行われた。NLDもこれに参加し、改選議席の8割を超える圧勝を収めた。一方のUSDPは大惨敗し、政権がNLDに渡ることとなったのだった。

事実上のアウンサン・スーチー政権と史上3度目の軍事クーデター

NLDの政権獲得によって同党は党首であるアウンサン・スーチーに大統領就任を要請したが、国軍の強い反対と息子がイギリス国籍であったことから就任を断念。変わってティンチョー議員を大統領に選出し、アウンサン・スーチーは閣僚に加えて新設の「国家顧問」に就任する。

だが政権に対する国際社会の視線は決して優しくはなかった。国軍によるいわゆる「ロヒンギャ」弾圧は続いていたからだ。ロヒンギャは当初アウンサン・スーチーを支持していたが、政権獲得後NLDは国軍による弾圧を黙認する姿勢をとったため、激しく抵抗したのだった。2018年、ティンチョー大統領の辞任に伴ってウィンミン下院議長が大統領に選出された。

2020年11月に再び行われた総選挙では、新型コロナウイルスの蔓延やロヒンギャ、少数民族による反乱が収まっていないことなどからNLD苦戦との見方もあったが再び大勝を収める。これに対してUSDPは選挙の不正を訴えた。このことがミャンマー史上3度目の軍事クーデターの前触れとなる。

2021年2月1日、この日は本来国会の開会日であったが、未明にアウンサン・スーチー国家顧問やウィンミン大統領らNLD幹部が相次いで拘束。自宅軟禁させられた。軍出身でUSDPのミンスエ第一副大統領が暫定大統領に就任し、非常事態宣言を発令。国軍最高司令官のミン・アウン・フラインに三権が移譲されたことで国軍は直ちに軍政組織「国家行政評議会」を立ち上げ、軍人やNLD出身者を含む民間人を構成員として現行の政治を行っている。

「ミンアウンフライン」の画像検索結果
ミン・アウン・フライン

国軍は選挙に不正があったとの立場を崩しておらず、「勝者に政権が渡るようにする」などと述べるなど、今後の雲行きは極めて怪しい。

国内では既に数万人規模のデモが行われており、軍との衝突も一触即発の情勢だ。

歴史は繰り返す、とはまさにこのことだろう。独立以来クーデターと民主化を繰り返してきたミャンマーという国の、今後が問われている。

参考

ミャンマー軍トップが演説「事実重視して」 日テレNEWS

【解説】ミャンマーで全権掌握、ミン・アウン・フライン国軍総司令官とは? AFPBB

独立から70年 民族融和、いまだ遠く 「英雄」暗殺で混迷 毎日新聞

ミャンマーってどんな国? 国軍の歴史に旧日本軍も影響 朝日新聞

外務省: ミャンマー~民主・経済改革で未来を拓く

網屋亮介『ビルマの民主化』(PDF)

松島みどり『ミャンマーにおける不平等─ビルマ族と少数民族の豊かさの格差の定量的把握─』(PDF)

中西嘉宏 『現代ミャンマー政治の原点を再考するために』(PDF)

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Aki

Akiおとな研究所 編集長

投稿者プロフィール

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おとな研究所 編集長
趣味は短歌、動画編集。不登校経験あり。

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