おとな研究所は新しくなりました!

今日から使える論証ツール! 生産的な議論のために -ゲストライター

※この記事は、ゲストライターによる寄稿記事です。寄稿の応募はコチラから誰でも可能です。


 Twitter上の議論を見ていると、おそらく字数が少ないためでしょう、まともな「論証」をせず、まるで当たっていない「反駁」を繰り返し、「定義」の違いを一切考慮しないという事例が多々見られます。

そこで今回は、誰でも使える論証ツールを簡単に解説します。もちろん、難しい数学モデルや膨大な知識量は不要です(筆者自身そんなもの扱えません)。

論証とはなにか?

 我々は常日頃から、当然のように論証という思考ツールを使っています。

 一つ例を挙げましょう。昨日サッカー日本代表の試合があったとします。そして今朝はサッカー好きの友人が上機嫌でした。すると貴方は、昨日の試合は日本代表が勝ったのだ、と結論する(推理する)でしょう。妥当性や結論の正しさはともかく、これも一つの論証です。

 より抽象化して説明すると、以下のようになります。

 正しい主張という「前提」から、「結論」という正しい主張を導く「導出(推論・推理)」、その全体を論証と呼びます。どれ一つ欠けても論証ではありません。

<スポンサー>

「私の心臓は地球ではない、よって動いていない……そんな馬鹿なことがあるか」

 前提から結論を導出する方法には、演繹法と帰納法があります。ひとまず本論では、演繹法のみを取り扱うとしましょう。

 演繹法は、「前提が正しい限り絶対に結論も正しくなる」という最強の論証です。例えば、以下のような形になります。

  • 前提1.インド人は皆サイヤ人である。
  • 前提2.ガンジーはインド人である。
  • 結論.ガンジーはサイヤ人である。

 ガンジーはサイヤ人ではありませんから、結論は誤っています。しかし、この論証は演繹的に妥当です。何故なら、前提が真なら結論も真にならざるを得ないからです。他の例も出しましょう。

  • 前提1.日本の首都は東京である。
  • 前提2.日本一の都市は東京である。
  • 結論.日本の首都は日本一の都市である。

 前提も結論も全て正しいですが、論証は非妥当で、演繹法は成立していません。「え、なんで?」と思われた方は、日本をアメリカ、前提1の東京をワシントンDC、前提2の東京をニューヨークに、それぞれ置き換えて読んでみると良いでしょう。すると前提は真ですが、結論は偽の論証が出来上がります。

「前提が正しい限り絶対に結論も正しくなる」のが演繹的論証ですから、これは演繹的な論証ではありません。

 もう一つ、演繹法が成立していない非妥当な論証を出してみましょう。

  • 前提1.地球は動いている
  • 前提2.私の心臓は地球ではない。
  • 結論.私の心臓は動いていない。

 前提はいずれも正しいですが、結論は馬鹿げています。これの論証を見て、「私の心臓は動いていなかったのかッ……!?」と思った方は一度病院に行くべきでしょう。

<スポンサー>

 このような誤謬は、前件否定の誤りと呼ばれます。対して、日本の首都に関する論証における誤謬は、後件肯定の誤りと呼ばれます。論証を行う場合、また人の論証を見極める場合は、常にこの二つの誤りを犯していないか注意しなければなりません。

 なお、上記のような論証の非妥当性を総称して、形式的誤謬と呼びます。

編集部注:写真ACより

「前提から結論が導けないし、そもそも前提が間違っている」

 形式的誤謬を犯している場合、それを指摘することで相手の論証に「反駁」することができます。「その前提からその結論は導けないぞ」と示してやるのです。この時、別に結論の誤りを証明する必要はありません。

 反駁にはもう一つ方法があります。それは、端的に前提が偽であると示すことです。以下に例を挙げましょう。

  • 前提1.コイン投げで七回連続して表がでたなら、八回目に裏の方が出やすい。
  • 前提2.コイン投げで七回連続して表が出た。
  • 結論.それゆえ、次にコインを投げて表が出る確率は低い。

 上記の論証は、形式としては全く妥当です。しかし、前提1が誤っています。過去のコイン投げがどうあろうと、次のコイン投げの確率には一切影響は与えません。「ギャンブラーの錯誤」として有名な論証ですが、それなりに騙される人も多いです(頭では分かっていても、つい)。

 一つ注意しなくてはならないのが、相手の論証を退ける手段は反駁だけではないということです。定義の曖昧さを指摘するもよし、もっと単純だが過不足のない論証が別に存在すると指摘するもよし(オッカムの剃刀を振るう)です。様々な方法を検討してみましょう。

「あなたのいう大都市と私のいう大都市が違うだけ」

 最後に、定義と前提の話をしましょう。先程、前提の誤りを示すことで反駁が可能だと言いました。しかし、そもそも絶対に正しい前提などあり得るのでしょうか。そうでないなら、「必ずしもそうとはいえない」という反論(懐疑論者の攻撃)を前に、あらゆる前提は敗れてしまいます。

<スポンサー>

 結論から言えば、絶対に正しいと言える前提はありません。だからこそ、我々は定義というモノを作り、共有し、利用するのです。議論をする際には、互いに言葉をどういった意味で使っているのかを相互に理解することが不可欠です。

 岡山は大都市だという人と、大都市でないという人の違いは、別にどちらが岡山のことをよく理解しているかでは(大抵の場合)ないでしょう。単に、大都市の定義が異なるのです。であれば、そもそも大都市の定義を決めないことには議論は始まりません。

 実のところ、意見の不一致の多くは、対立する陣営どうしがことばを別の意味で使っているせいで生まれます。不毛な議論を避けて、生産的な議論を行うためにも、定義という概念を忘れてはなりません。

さて、まだまだ書きたい所ですが、2000文字を超えましたのでこの辺で筆を置くことにします。本論が少しでも読者様方の役に立てば幸いです。

関連記事:民主主義への公開書簡─今疑うのは本当に正しいと言えるのか


※この記事は、ゲストライターによる寄稿記事です。寄稿の応募はコチラから誰でも可能です。

ライター:爆プロ Twitter:@bakugekiproject プロフィール:大学生

<スポンサー>

1件のコメント

コメントを残す