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総選挙の風物詩 -「地域政党の国政進出」を振り返る

 10月1日、永田町・新宿を騒然とさせるニュースが駆け巡った。

小池百合子東京都知事が特別顧問を務める地域政党「都民ファーストの会」は1日、国政新党の設立について今月3日に都内で記者会見を開くと発表した。荒木千陽代表(東京都議)が会見する。党関係者によると、次期衆院選に候補者を擁立する見通し。

都民ファーストの会、国政新党を設立へ 衆院選に候補者擁立へ(毎日新聞) – Yahoo!ニュース

 7月に行われた都議会議員選挙で、当初の苦戦予想を跳ね返して第2党に留まり、なおも都政与党として存在感を発揮する地域政党・都民ファーストの会(代表:荒木千陽都議 特別顧問:小池百合子都知事)が、来たるべき次期衆議院総選挙に候補者を擁立すると発表したのである。

 先月29日には自民党総裁選挙が行われ、日本国民の注目は一挙に新総裁・岸田文雄氏に注がれた。4日に召集される臨時国会での新政権発足に向けて、閣僚人事や自民党役員人事の内情が刻々と伝えられる中でのこの発表には、恐らく永田町関係者の中にも生きた心地がしなかった人がいることだろう。それほど衝撃的なニュースだったのである。

 しかし、結局今回の衆院選には候補擁立を見送るという結果になった。その顛末と背景については、以下の記事で解説されているので是非ご一読いただきたい。

関連記事:【ファーストの会】都ファ新党は、なぜ国政進出に失敗したのか

 本稿では都民ファーストの会のこれまでの動きに加え、地域政党の国政進出について過去の事例から検証していく。

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小池知事誕生から「希望の党」瓦解までの軌跡

 小池氏が都知事に就任したのは2016年。長期都政を敷いた石原慎太郎元知事以降、猪瀬直樹氏・舛添要一氏と知事が「政治とカネ」問題で相次いで辞任に追い込まれ、都民の都政に対する信頼は完全に地に落ちていた。この時の都知事選も、小池氏以外の候補は与党によって担ぎ出された閣僚・岩手県知事経験者の増田寛也氏と、野党共闘によって担ぎ出されたジャーナリストの鳥越俊太郎氏による「お神輿選挙」の様相を呈していたのである。

 与党の推薦候補がなかなか決まらない中、小池氏は会見を開いた-自民党都連会長であった石原伸晃氏に出馬会見の連絡があったのは会見直前だったと言われている-当初は自民党都連に推薦願を出したが後にこれを取り下げ、国会議員の応援は一部の与党議員に留まる中で2位以下の候補に大差をつけて初当選を果たす。

 翌年には都議会議員選挙が控えていた。小池氏は知事与党で旧みんなの党会派「かがやけTokyo」を母体とした地域政党結成を模索。結果としてこの会派は「都民ファーストの会 東京都議団」と改称し、同会には小池氏を支援した地元・豊島区の区議や一部の自民党・民進党都議が参加を表明していった。後に小池氏自らが代表に就任。求心力を最大まで高め、結果として公明党と東京都・生活社ネットワークとの選挙協力も功を奏し、都民ファーストの会は2017年都議選で歴史的な大勝を果たす。

 この時点で解散総選挙が迫っていると言われていた政局で、都民ファーストの国政進出を確実視する向きもあった。事実知事選で小池氏を支援し、後に小池氏が知事選出馬で空けた小選挙区の補欠選挙に出馬して当選を果たしていた自民党の若狭勝衆議院議員は、自民党を離党して政治団体「日本ファーストの会」を結成。複数の国会議員に参加を打診するが調整がつかず、解散総選挙が急迫していたため小池氏が自ら動き-このときも急の会見を用意する-「希望の党」結成を発表したのだった。

 当初はみんなの党や維新などにいた「第三極系無所属」の国会議員に、自民党・民進党離党組が加わるという陣容だった。公認予定候補も新人が大半を占めるはずだったのである。しかし野党-特に民進党-による小池新党への衝撃は並々ならぬものだった。当時の代表は前原誠司氏。共産党との野党共闘などよりも、維新などとの野党「再編」の方に前向きだった。そのため当初からこの「希望の党」についても、「大事なのは安倍政権をみんなで追い込むこと」と秋波を送っていた。

 前原氏は民進党常任幹事会・両院議員総会で「公認候補を擁立せず、全候補予定者を希望の党に公認申請する」という事実上の解党宣言を了承させる。選挙協力については大阪を根拠地とする日本維新の会と、小沢一郎氏が代表を務める自由党の3党に渡っていた。

 だが風向きはにわかに変わり始める。まず当時の大阪府知事である維新の松井一郎代表は、「民進党とまるごと合流では選挙協力できない」と明言。さらに小池氏本人も「様々な観点で絞り込む」「全員を受け入れる気はさらさら無い」と言い切った。後に行われた会見では「排除します」と笑顔で語ったのである。

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 公認申請を予定していた民進党の前議員からすれば冗談ではなかった。特に憲法や安全保障といった、イデオロギーに強く左右される部分で譲れないという人は少なくなかったからだ。小選挙区当選の見込みがある「大物野党議員」は無所属での出馬を検討し始めるが、新人候補などの中には新党結成を期待する声もあった。こうした声を受けて、民進党の枝野幸男代表代行がリベラル系の前議員らとともに「立憲民主党」を結成。民進党は分裂選挙に追い込まれることになる。世論はというと立憲民主党への期待感が急上昇して希望の党の勢いは失速。

 選挙結果は50議席。自公両党の圧勝を許し、立憲民主党の54議席にも及ばない大敗を喫した。共同代表に民進党出身の玉木雄一郎氏が選出された直後、小池氏が突如代表を辞任して玉木氏の単独代表制となる。加えて民進党出身者が大半を占めていたため、希望の党内は早くもまとまりがつかなくなり野党再編に舵を切ろうとした。

 だが立憲民主党が野党再編に応じようとしなかったため、やむを得ず参議院を中心に存続していた民進党と改めての「合流」を模索。希望の党からは結党メンバーら保守系が、民進党からはリベラル系がそれぞれ多数離れる中で両党は新党「国民民主党」を結党した。一方松沢成文参議院議員ら一部の結党メンバーは新たに「希望の党」を結成するが、当の小池氏は既に代表を離れておりこれら何れの流れにも加わらず、「都政に専念する」と宣言。

 立憲民主党・国民民主党の流れは現在に渡って続くが、新・希望の党は空中分解し、今回の衆院選で解散することが決まっている。

地域政党の国政政党化事例

 ここからは、過去に地域政党が国政進出した事例を簡単に紹介していきたい。

減税日本

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河村たかし氏
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 2009年、民主党衆議院議員であった河村たかし氏が「不退転の決意」として名古屋市長選挙への出馬を表明する。市長選挙にあたっては市民税の恒久減税や議員報酬の半減などを掲げていた。庶民派として展開した選挙は、民主党による政権交代への機運も相まって河村有利に大きく傾き、過去最高得票数で圧勝する。

 しかし、2010年に入って以降名古屋市会への工作なしに政策を進めようとしたため市会と全面対立。一進一退の攻防の末に河村市長は市議会のリコール運動を展開し、同時に新たな地域政党結成に動いた。2011年にリコールの住民投票が行われ、解散が7割を占めたため名古屋市会は解散。この住民投票とともに同時に河村市長も辞職し、2選を果たした。翌月に行われた市会議員選挙では1議席から市会半数の28議席を獲得する大躍進を果たす。以降減税日本は現在に渡るまで河村市政の与党として市会に根強い存在感を示している。また同時に行われた愛知県知事選挙では、河村氏が支持した大村秀章前衆議院議員が初当選。

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 一方国政では、民主党政権に対する国民の失望感が広がっていた。小沢一郎氏などによる政界再編の動きが強まる中で、2012年には民主党を離党した衆議院議員らによって会派「減税日本」が結成される。しかし民主党離党組は小沢グループが「国民の生活が第一」を、大阪維新の会に同調するグループが「日本維新の会」を結成するなどし、予想に反して政党要件(国会議員5名)獲得は難航した。最終的には5人の参加が達成されて国政政党化。

 なお同時期に結成された新党として、石原慎太郎全東京都知事を中心とする「太陽の党」があった。減税日本は維新との合流を繰り返し模索していたが政策面で折り合いがつかず、また維新側も大村秀章知事が結成した「中京維新の会」との連携に舵を切ったため、合流や連携が困難となる。そのため減税日本は太陽の党との合流を模索して石原氏と共同記者会見まで開くが、こちらも太陽の党が維新と合流したため破談。減税日本は保守系政党の糾合から外された形となった。

 そのため左派系野党との連携に軌道修正。山田正彦前農水大臣や亀井静香前国民新党代表らとともに「減税日本・反TPP・脱原発・消費増税凍結を実現する党」を結成。のちに小沢氏の「国民の生活が第一」とともに、嘉田由紀子滋賀県知事が結成した「日本未来の党」へ合流して総選挙に臨んだ。

 結果は大惨敗。減税日本系の候補者は当選者を出せなかったが、以降も度々国政選挙に候補者を擁立。2016年からは維新との連携を再開し、共同公認や相互推薦の形を取っている。一方で名古屋市政でも多くの離党者や党勢凋落の時期もありながらなんとか持ちこたえ、2021年現在も13人の所属議員を有している。

対話でつなごう滋賀の会・日本未来の党

 2006年に滋賀県知事となった嘉田由紀子氏は、当初政党の支援を受けていなかったため滋賀県議会に基礎勢力が存在しなかった。そのため嘉田氏を支援する地方議員などのネットワークとして「対話でつなごう滋賀の会」が発足。2011年および2014年の滋賀県議会議員選挙では4名の当選者を出している。滋賀県政では環境主義・地域主義に立脚して徐々に民主党との距離を縮めていった。

 一方で嘉田氏は2011年の東電原発事故を受けて、「卒原発」の必要性を感じていた。最終的には2012年に「びわこ宣言」を出して前述の「日本未来の党」を結成。国民の生活が第一、減税日本・反TPP・脱原発・消費増税凍結を実現する党などが合流したが、「対話でつなごう滋賀の会」はこれに不快感を示し、最終的に滋賀県内での候補者擁立を断念した。全国で121名の候補を擁立したものの、大惨敗。当選者は小沢系議員7名のほか、国民新党を離党して参加した亀井静香氏と、社民党を離党して参加した阿部知子氏の9議席に留まった。

 選挙後すぐに小沢系議員との役員人事などを巡った争いが激化し、最終的に党名を「生活の党」に改称して、嘉田氏側についた阿部氏が離党し新たに政治団体「日本未来の党」を結成。(亀井氏は離党し後に政界引退)

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 生活の党は後に「生活の党と山本太郎となかまたち」、「自由党」と改称して後に国民民主党に合流。日本未来の党は後にみどりの風と合流したが、同党も解散。阿部氏は立憲民主党に参加して当選している。

 一方の嘉田氏は2014年の滋賀県知事選挙に出馬せず、新人三日月大造氏を支援。三日月氏の支援組織「チームしが」の共同代表に就いた。三日月氏の当選後は民主党系会派と「対話でつなごう滋賀の会」が合流して「チームしが県議団」を結成して現在に至る。嘉田氏は2017年衆院選に出馬。当初は希望の党の公認を望んだが得られず、無所属での出馬となった。結果は落選。

 その後国民民主党に参加するが、最終的には2019年参院選で滋賀県選挙区から無所属で出馬し初当選を果たした。以降もチームしがとの兼ね合いで無所属を貫き、参院では永江孝子氏とともに会派「碧水会」を組んで代表に就いている。

大阪維新の会・日本維新の会

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橋下徹氏
WikipediaCommmons

 最後に紹介するのが、「大阪維新の会」「日本維新の会」である。地域政党が国政政党化した事例のうち、唯一現在まで存続している政党だ。

 2008年2月、自民党府連・公明党府本部の推薦で大阪府知事選挙に初当選した橋下徹氏は、府庁・府政改革を推し進めた。この過程で、与党であるはずの一部の自民党府議と政策面での違いが表面化。さらに橋下氏は大阪府・大阪市の現在の枠組みを大きく変える「大阪都構想」を提唱し、これに賛同する議員を集めた政治グループの立ち上げを決めた。

 2009年4月、大阪府議会で自民党会派が分裂し「自由民主党・維新の会」が届け出される。翌2010年の同4月には会派名を「大阪維新の会大阪府議会議員団」に変更し、政治団体「大阪維新の会」が結成された。2010年中の各種選挙にも勝利し、2011年4月に行われた統一地方選挙において、大阪府議会、大阪市会、堺市議会の第一党を獲得。さらに同年11月には大阪府知事選挙に党幹事長の松井一郎氏が、大阪市長選挙には鞍替え出馬した橋下氏が初当選するという圧勝を収めた。

 このように大阪で巻き起こっていた「維新旋風」は、民主党政権末期の解散ムードが漂う永田町にも波及する。2012年9月に、大阪維新の会は同会を母体とする国政新党「日本維新の会」を結成することを決定。なおこれ以前より協議を重ねていた、国会内の超党派議員グループ「道州制型統治機構研究会」のメンバーの参加が報道された。最終的に、民主党を離党した松野頼久元官房長官や、自民党を離党した松浪健太衆議院議員、みんなの党を離党した小熊慎司衆議院議員など現職国会議員7名が参加して「日本維新の会」が結成された。これ以後は、解散までの政局に揉まれることとなる。

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 まず9月中に、地域政党「日本創新党」が合流。次いで、石原慎太郎前東京都知事率いる国政政党「太陽の党」が合流した。先述の通りこの間、太陽の党は「減税日本」や国民新党を離党した亀井静香氏などとの合流を目指したが失敗。維新との合流に舵を切った。また小沢一郎氏率いる「国民の生活が第一」との連携も噂されたが、これも立ち消えとなった。これら維新との連携に失敗した勢力は、いずれも後に前述の「日本未来の党」の母体となる。

 石原慎太郎氏が代表、橋下氏が代表代行という体制に移行した維新は、2012年12月に行われた衆議院議員総選挙で議席を5倍近くに増やす54議席という大躍進を果たし、第三党に躍進。50議席以上を失った未来の党とは対照的な結果となった。

 しかし、これ以降の党勢は振るわなかった。まず、石原氏のお膝元であるはずの東京では2013年6月に都議選が行われ、維新は34人の公認候補を立てる。しかし結果は選挙前議席である3議席の維持もできず、2議席の獲得に留まった。橋下氏は共同代表の辞任を示唆したが、結局留まった。背景には同じ第三極で、これまで各種選挙で協力関係を気づいてきたみんなの党との選挙協力が進まなかったことがある。橋下氏は2013年5月、第2次世界大戦時の朝鮮半島で、旧日本軍によるいわゆる「慰安婦問題」について、以下のように発言した。

第2次世界大戦中でも日本軍以外でレイプだなんだのがあったというのは事実として出てきている。そういうのを抑えていくには、一定の慰安婦みたいな制度が必要だったのも厳然たる事実。慰安婦制度を全部否定するとか正当化するというのはダメ。

慰安婦問題などを巡る橋下氏の主な発言: 日本経済新聞

 これを受け、みんなの党の渡辺喜美代表は「維新の会との協力関係解消」を宣言。この影響は都議選のみならず、7月に行われた参院選にもあった。両党は選挙区の棲み分けを行わず、各地で共倒れ。44人の公認候補のうち8名の当選に留まる。以降も各選挙では全盛期のような勝利をおさめることはできなかった。そのため橋下氏は、政界再編に舵を切る。2014年1月、みんなの党の野党再編派である江田憲司氏らが、同党を離党して結成した「結いの党」との合流協議を開始。しかし石原氏らのグループは「結いの党は護憲政党だ」と、合流に反対。結果石原氏らのグループと橋下氏らのグループはそれぞれ「次世代の党」「日本維新の会」に分党し、2014年9月に日本維新の会は結いの党と合流して新党「維新の党」を結成する。

 12月に行われた衆議院総選挙では、事前の予想に反して現有議席を維持する善戦を収める。この頃から維新は党是である「大阪都構想」の住民投票を向けた活動を本格化させ、2015年5月に住民投票が行われるが僅差で否決。橋下氏は市長任期をもっての政界引退を表明し、維新の党代表は江田氏から松野氏に交代した。

 松野氏は活路を再度の政界再編に求めて民主党などとの合流を模索するが、これに反対する大阪維新出身の国会議員との対立が深まり、ついに維新の党の柿沢未途幹事長が山形市長選挙において、共産党が支援する候補を独断で支援したことで分裂が決定的となる。橋下氏・松井氏らは柿沢氏の辞任を求めるが、松野氏ら執行部は拒否。結局大阪維新出身の国会議員は、新党「おおさか維新の会」を結成して分裂。後に維新の党は民主党と合流して「民進党」となり、おおさか維新の会は「日本維新の会」に改称して現在に至る。

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「地域政党」の意義と、国政進出で果たす役割

 ここまで4つのケースを見てきたが、唯一国政政党として存続している維新でさえその道は平坦ではなかったことがわかる。地域政党が国政進出するというのは、その性質上必然的に「第三極」として戦うことを求められるからだ。首長である代表の一時的な人気で躍進することはあっても、それが継続することはほとんどない。

 しかし、地域政党が国政進出することにも意義はある。各地方自治体で積み上げてきた行政経験・ノウハウを国政に活用できることだ。こうした政治グループの強みは、各党が「政権をとったら〇〇を実現します」と訴えるところを「既に〇〇市で実現しました」とアピールできるところだろう。

 国政においては、自民党を中心とする与党勢力と、民主党系を中心とする野党勢力の間で埋没しないよう、常に「キャスティングボード」を握れる程度の議席獲得が必要となってくる。単なるポピュリズム政党では、継続的な党勢拡大はできない。

 維新や小池百合子東京都知事周辺の政治グループ、さらにその他の第三極政党と地域政党との連携は、これからも目が離せない。今回の第49回衆議院議員総選挙での結果は、その大きな節目となるだろう。

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